どうも!
諸葛菜です。
ついに大御所、蜀の皇帝劉禅です。
このブログはこの漢を書くために存在しているのだっ!
ってほどでもありませんけど^^;、重要人物であるのはたしかですな。
三国志演義後半では暗愚っぷり全開で、中国の明時代から現在まで多くの読者に憎まれた漢ではないでしょうか?
三国志演義では、暴君の孫皓よりも際立ってダメ君主振りが描かれています。
劉禅の幼名である阿斗は現代中国語でも「馬鹿」「アホ」の代名詞ですし、やっぱり後世からは良い目で見られてはいません。
ただ、最近はいろいろな意見があり、戦を止めさせたのだからそこは評価すべき、勇気ある英断などという意見もあるから、あながちアホ扱いできないのかもしれません。
劉禅評は長くなりますからな。下手に記事にできません。
さて、そんな劉禅ですが、三国志演義後半に至るまでを簡単にまとめてみます。
劉備と甘氏の息子。
大人になってからはダメ君主だが、物心もつかない頃に修羅場をくぐっている。
曹操軍に追われた劉備は、荊州の人民を伴って大脱出。
そこで激しい追撃を受けるのですが、劉禅は母親甘氏に釣れられていましたが、母親は命を落としてしまいます。
趙雲に助けられ、間一髪で父親の元にたどり着きますが、おやじの劉備にぽいっと投げられてしまう。
「子供はいくらでも産めばいい、良き将軍はまたと得られない」
子供は父の枝葉である。
漢の高祖劉邦も項羽に追いかけられている時に自分の子供を馬車から投げ捨てていましたな。
物心つく前に実の父親からのこの仕打ち。
父親も辛酸を嘗めながらもどうにかこうにか蜀漢皇帝となりました。
父の死後、宰相の諸葛亮以外はそれほど大物はいませんでしたが、スーパーパワーを持つ諸葛孔明に助けられ、血腥い戦場に行くことなくぬくぬくと宮廷で暮らしていました。
そんな諸葛亮任せの日々でしたが、234年、ついに諸葛亮が五丈原で死去。
劉禅は諸葛亮の死の前後、思い煩って寝食も定まらぬまま不安な毎日を贈っていました。ある夜の夢に成都の錦屏山が崩れる夢を見て驚いて目を覚まし、すぐに文武百官を集めて評議。
魏延 part2 孤高の戦士 謀反を起こしたと思われ楊儀た…
趙直 蜀の死亡フラッガー 魏延にダメ出しの凶夢を吉夢と偽る!
ショウ周が言うには、丞相のみに何か凶事があった兆しであると見解を述べました。
劉禅は慌てるのみ。
李福が到着し、丞相の死を告げると、劉禅はその場に泣き伏してしまいました。
「天は朕を滅ぼしたもうか!」
フラフラになってしまった劉禅は後宮に引き篭もりがちになってしまいました。この間、朝廷に出勤することもなし。
魏延から楊儀謀反すの報が入ると、百官たちは後宮に押し寄せてこの旨を劉禅に伝えました。
楊儀からは魏延の方こそ謀反だとの一報が入り、劉禅は大混乱。この事態に全く対応できていないのを見かねた呉太后が、
「そなたたちはどう思うか?」
ショウエン、董允が
「楊儀は諸葛亮の生前から事務仕事をきちんとこなしていたし、臨終にあたって大事を託したわけだから謀反をすはずがないんじゃないか」
「魏延は前から楊儀のことを煙たく思っていたし。諸葛亮が死んだからこれみよがしに謀反を企んだのだろう」
と、半ば魏延を悪者にして勘ぐっただけとも取れない発言のように思いますが、劉禅は、
「魏延の謀反が明らかになったうえは、どうして彼を防いだらよいか」
と、真犯人を魏延と後宮で断定してしまいました^^;
まあ、この後戦場から戻った費イによって、魏延謀反の報が入ったので明らかになったのですが。
劉禅はとりあえず董允を遣わして魏延に帰順をすすめるよう支持しました。
ボンクラ皇帝、ダメ皇帝と呼ばれて久しい劉禅様ですが、孔明の死後という異常な状況下において、オドオドしたり呉太后に仕切られたりしながらも文政だけは怠らず、真犯人である「魏延」を特定しました^^;
今後の活躍にも期待ですな♪