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Channel: 三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
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司馬昭 part2 反乱鎮圧!朝廷席巻!俺の前にはペンペン草も生えさせねえぜ!

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どうも!


諸葛菜です!


お久しぶりの更新です。


さて、今回は司馬昭の続き。

前回までの記事はこちら。

司馬昭 父司馬懿、兄司馬師の跡をついて覇道をゆくっ!




三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


裏ワザ的な祈祷を使って、姜維の包囲網を脱出。
しかし、味方の損害も大きかった。多くの兵士が死に、羌兵もにしました。さらに、徐質、郭淮が討ち死に(演義では)。





司馬昭は朝廷に戻ってからは、自分の戦での敗北を一切恥じることなく、朝廷内を兄司馬師とともに切り盛りした。


文武百官はその威をおそれ、何も言えないばかりか、皇帝の曹芳すら意見一つ言うこともできない有り様で、針のむしろに座っているような人心地でありました・・・。


司馬昭が帰国した時も、玉座から滑り降りて迎える曹芳。


司馬昭の威勢MAXですな。


曹芳が司馬氏兄弟を覗こうと、夏侯玄らとともに謀議を重ねましたが、結局バレてしまいました。



詳細はこちら:

夏侯玄 夏侯尚の息子 名士にして文人 そしてバーリートゥード上等の熱い漢だった!


曹芳 曹叡の跡継ぎ 魏の皇帝 傀儡皇帝第1号は僕だ!


張緝(チョウシュウ)李豊 司馬師暗殺計画前にも、司馬氏批判の言動も


司馬師 司馬懿の長男 魏の曹芳を廃位 飛び散るお眼眼・・



で、曹芳が廃帝となり、新しく曹髦が皇帝になりました。





第110回。
この回では毌丘倹、文欽が司馬氏兄弟の専横を憎んで挙兵しますが、司馬昭は戦場にでることはありませんでした。


「弟司馬昭を洛陽にとどめて朝廷の政務をみさせることにすると、」


洛陽でのお留守番^^;


終了!

毌丘倹 part1 叛乱だけの漢じゃない!高句麗征伐で武功


文欽 ノリがいいだけの漢じゃない!司馬一族に2度逆らった義士


兄司馬師はこの戦いで死んでしまいました。



当然、司馬昭は兄の大任を引き継ぎ、許昌で兄を葬りました。
洛陽から早馬が来て、「東呉に備えるため、許昌に留まれ」と勅命がきましたが、知恵袋の鐘会が、「こんなところにとどまっておられて、朝廷に変事が起こったらどうなさるのですか!」と言われて、洛陽へ出立。


司馬昭は大将軍となり、内外の事は大小となく彼の手にすることとなりました。




司馬昭は、大将軍の地位についてからも簒奪の機会を狙っており、まずは自分に対する不平分子を「狩る」行動に出ました。


諸葛誕は淮南で人心を掴んでおり、軍勢も擁しているので油断のならない相手。そこで、自分の飼い犬である賈充に諸葛誕の意向を探らせました。



諸葛誕は、


「皇帝に万一の事があれば、命に代えて守る!」


と、聖闘士星矢の聖闘士ばりの回答をしたもんだから、司馬昭は激怒!


結果、諸葛誕は挙兵。

司馬昭は諸葛誕退治のために自ら出陣しました。


抜け目の無い司馬昭、いや、鐘会でしょうか。
司馬昭が出陣すると、朝廷は皇帝曹髦が好き勝手をやるのではないかと、警戒して無理やり親征させました。


諸葛誕退治は呉から援軍が来たり、少々時間がかかりましたが、概ね順調といった形で片付きました。


参照記事:

諸葛誕 狗と呼ばれた男…魏の皇室のために司馬氏に鉄槌を振りかざす!!


楽綝(楽チン) 楽進の息子 剛毅な武将の最後


朱異 朱桓の息子 優秀な将軍だけど性格に難あり?


于詮 籠城することに意義がある!演義第112回のタイトルは俺がもらった!


この戦いでは鐘会の悪知恵、懐刀ぶりが目立ちましたね。


司馬昭は、

「そなたは、まことにわしの子房(張良、漢の高祖劉邦の謀臣)じゃ♪」


と、鐘会を絶賛。





曹髦を狩る!

曹髦は自分のことをどじょうや鰻にたとえた詩を作り、司馬昭にいじめられているけど、臥薪嘗胆、反撃の機会を疑っていることをほのめかしてしまいます。


これを知った司馬昭はすぐに参内して、我ら司馬親子をどじょうや鰻に例えるのはどういうことだ!?

と詰めより、曹髦を追い詰めてしまいます。


結果、曹髦の暴走を促してしまいます。


曹髦 part1 曹芳の後を継いで魏の皇室を背負ってたった若君!


曹髦 part2 魏の皇室のため、自ら肉弾と化す!


成済、成倅兄弟! 司馬昭・賈充にはめられ皇帝曹髦(ボウ)を殺害


焦伯 曹髦のために散った、隠れた忠義の士!華麗なる出オチ!


司馬昭は賈充に命じて、曹髦を討たせ、賈充は成済に命じて曹髦を殺させてしまいました。


しかし、曹髦を殺しても、自分が帝位につくことはしませんでした。

「むかし周の文王は天下を三分してその二まで有しながら、殷に臣事したゆえ、聖人も至徳の人としてたたえたんじゃ。魏の武帝曹操が漢の禅譲を受けようとしなかったのは、わしが魏の禅譲を受ける気のないのと同じじゃ」


おもいっきり、息子の司馬炎を皇帝にさせるフラグをぶっ放してこの回は終了。


まさにイケイケの司馬昭。
彼に落日の日は来るのか・・・。



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