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Channel: 三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
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後三国演義って確か諸葛菜もゲットしたつもりだったけど…違うver.?

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どうも!


諸葛菜です!


ご無沙汰です。



ちょっと4ヶ月前のネットニュースですけど、三国志演義後半マニアだったら見落としてはいけない記事を見落としていましたよっ!


まずはこちらのガジェット通信の記事をご覧くだされ。



その名も『後三国志演義』!なぜか三国志演義の編者・羅貫中がボツにした?!

ゲームでも大人気の中国の歴史小説『三国志演義』。実はこれには、著者・羅貫中に消された幻の続編があったのをご存知だろうか。なんと、『三国志演義』ではあっさり滅亡した蜀漢が復活し、魏の跡を継いだ晋王朝を滅ぼすというものなのである。その名を、『後三国志演義』という。


え、それは『反三国志』『超三国志』じゃないのかって?!違うんですね。『反三国志』こと『反三国志演義』は、中華民国になってから周大荒が書いた小説で、話は赤壁の戦い直後から始まる歴史if小説である。ところが、『後三国志演義』は正史『晋書』を元にしたレッキとした明代の古典小説なのだ。


『三国志演義』は、元々盛り場で語られていた講談であった。講談をもとに、劇作家の羅貫中が歴史小説にしたのが『三国志演義』なのだが、なぜか羅貫中は、講談の最後で「劉備の孫の劉淵が蜀を再興し晋と戦う」となっていた下りを削除してしまう。講談をまとめた『三国志平話』には、その下りがかなりのボリュームで書かれていたのにである!


その、羅貫中が捨てたストーリーを復活させたのが明の万暦三十七年(西暦1609年)に、匿名の人(ペンネームは酉陽野史)が書いた、『後三国志演義』(別名:後三国演義・三国志後伝)である。あらすじはこうだ…


ー魏の侵略により、蜀が滅んだの時、皇帝劉禅は宦官・黄皓(こうこう)の差金で、蜀の五虎大将の末裔を閑職に追いやっておりました。劉禅の甥、劉淵(※注1)は劉一族の中でも「知恵袋」の異名がある武将。彼は蜀の名将の子孫たちと共に、魏軍の囲みを破って北へ脱出します。従う武将は…


劉封の子:劉霊
関羽の孫:関防、関謹
張飛の孫:張賓、張敬、張実
趙雲の孫:趙概、趙染,趙勒
黄忠の孫:黄臣、黄命
諸葛亮の孫・諸葛宣
魏延の息子たち:魏攸、魏晏、魏顥(※注2)
馬謖の子:馬寧


と言った面々。北へ逃れ、次第に勢力を拡大し、他の豪傑たちにも呼びかけ、御家再興の機会を探っておりました。幸い、蜀の姜維が劉一族の劉豹(りゅうひょう)という人を北方に派遣して、晋陽左国城(現・山西省太原市)というところで匈奴を治めさせていたので、劉淵たちも左国城へ落ち延びていきました。(※注1 劉淵は劉備の次男・劉理の息子という設定。はじめは劉據[りゅうきょ、據の字は正しくは王へん]という名前で登場、蜀から左国城へ行く過程で改名する)(注2 後に、敵国・魏の名前を嫌い、父・魏延の字(文長)によっていずれも姓を「呼延」と改姓)


ー魏は晋に乗っ取られ、晋は呉を滅ぼしました。


ー劉備の孫・劉淵は北方で立ち、晋軍と交戦します。蜀軍・晋軍は一進一退の攻防の末、蜀が次第に晋を圧倒、晋の主だった武将を打ちとった劉淵は漢王を称し、漢を再興します。


ー劉淵の子孫たちが晋を滅ぼし、天下は平和になりました。


という、中々、面白い話である。『反三国志演義』よりも無理がなく、実に面白い本だと思う。江戸・明治時代に『後三国志』として結構読まれ、明治時代には書き下し文の訳が出ているが、現代語訳がないのは不思議である。


実は、この劉備の孫・劉淵の話は大筋は正史『晋書』に登場するレッキとした史実なのである。ただし、劉淵は正史では「匈奴王の血筋を引く、劉備の甥」であり、前に上げた蜀の五虎大将の子孫たちも大半は実在するものの、蜀の武将との関係は正史『晋書』には書かれていない。


なぜ、羅貫中は劉淵を消したのか?


羅貫中が劉淵の存在そのものを抹殺してしまった理由は、劉淵が中国人とモンゴル人(匈奴人)のハーフで、純粋な中国人ではない為である。おまけに、「北へ逃げて、その後南下して晋を滅ぼした」という話が当時の社会情勢上許されない話だった。


羅貫中の頃の中国は、中国の本土はかろうじて明王朝が支配していたが、実は前の王朝の元王朝が北京を捨ててモンゴルに都を置き、モンゴルから満洲、ウイグルまでを支配しており、実際には南北朝時代になっていた。


明王朝の皇帝は中華思想を徹底させ、「元王朝など存在しない。いいね。元の存在を口にしたものは皆殺しだ!」という恐怖政治を敷いていた。そんな中、元王朝を思わせる劉淵の存在は羅貫中に取って邪魔でしかなかったのではないか?羅貫中は三国志演義の末尾で、繰り返し、「蜀漢は滅んだ」「蜀漢が滅んで晋に変わるのは天命だ。諸葛孔明も神になっていたがそれを認めた」と述べており、しきりに明王朝にゴマをすっている。あたかも、中国政府が尖閣諸島を中国領だと言い張るような、見苦しいこじつけをしているのだ。そのためにこの史実が埋もれ、正史『晋書』・『後三国志演義』いずれもマイナーな存在になっている。残念でならない。



参考元:http://getnews.jp/archives/572151



という訳で、羅貫中御大在世のみぎり、諸事情があったため三国志のその後については熱く語れなかったのですね。


今と変わらぬモラルの中華、今も昔も変わっていないなんて、シーラカンスのようなお国柄です。




ふむ…確かに中国にあるようです


魏延の息子が3人も登場しているのも驚きだけど、劉封の息子、馬謖の子孫など、有名だけどちょっと性格的に何のあるやや小粒なキャラの子孫を拾ってくるとは、味な真似をしてくれますね。

極小数のツボを刺激してくれる人選です。



このブログで扱う演義後半には劉封はすでに他界しているので登場しませんが、諸葛菜個人としてはかなりお気に入りの武将です。


親父が蜀の君主となり、その正統な血を譲り受けた跡継ぎがいる中、不満や不安もあったけれどもきちんと親父に仕えた劉封さん。能力的な部分はイマイチよくわかりませんが、劉禅ではなく、劉封がもし親父の後を継いでいたらどうなるだろうか?と、高校時代に柔道部の仲間と話をしたものですw


というわけで、ガジェット通信の記事を見る限り、かなり興味をそそられました。



是非読んでみたいっ( ゚д゚)!!!




…あれ?



でも、待てよ…。確か『後三国志演義』って、わたしも購入しなかったっけか?


後三国演義がやって来た



そう確かに購入していますし、未だに私の部屋の本棚に鎮座ましまし、ホコリを被っております。

でも、内容が上記記事と全然違うんだよなあ…。

魏延の子孫も出てこないし。



石珠様というお姉さまが、ロン毛のユニコーンに騎乗し、妖術を使って晋の軍団を蹴散らす内容でした。


全部読んでないけど。


あまりの荒唐無稽っぷりに数十ページ読んだだけでお腹いっぱいになってしまいました。

だけど・・・今度勇気を出して読んでみようかな…。


すんげー疲れそうですけど…。



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石珠様w^o^)丿!


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諸葛京の画像追加 諸葛京 諸葛瞻の子 羅憲に推薦された人士

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諸葛京の記事を前回書きました。



中国サイトにて連環画(絵本劇画)に諸葛京がチョイと出ておりましたので画像を追加。


蜀が滅ぼされてから2年が過ぎたが、未だに東呉は健在であり、中国全土の統一は未だなっていなかった。晋の武帝は社会秩序を保つために、蜀漢の旧臣たちを採用した。その内の1人が諸葛亮の孫である諸葛京もいた。彼を以って人心を安定させた。



「秦凉造反」三国時代以降の晋時代に関する本を見っけた!

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五丈原に行ったせいか 、「諸葛」がマイブームです^-^



どうも!


諸葛菜です!


最近、


それと、検索してくださるキーワードが諸葛亮、諸葛尚、諸葛瑾とか・・・諸葛系が多いんですよね。


こんな期待にできる限り答えようと、がんばろうと思います。地味なキャラばかりだけど。


というわけで、諸葛京です。



諸葛瞻 の次男、諸葛亮 の孫。


蜀漢滅亡後、諸葛京は264年に河東(現:山西省)。


268年、晋の武帝司馬炎は羅憲 の推薦を受けて、

諸葛京、陳寿、費恭(費褘(ヒイ) の次男)などを招聘した。


諸葛京は史実にも唯一記載のある、晋朝に仕えた諸葛亮の孫である。

(三国志 裴松之の注)によると、諸葛京は才能があり、眉県の県令となった。

晋の大臣山涛も諸葛京を称賛し、県令時代に実績を積み上げて抜擢され、諸葛京は江州刺史となった。


諸葛亮の子孫は優秀だな~。


父の名声もあるかもしれないけど、きちんと実務が出来る子って、どこにいても活躍できますね。



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VIVA!諸葛亮系諸葛氏と思ったら


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蜀漢三老将って誰だか知っています?私は今日知りました^^;

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どうも!


諸葛菜です!


三国志で老将と言ったら、黄忠、厳顔、盧植丁奉 ではないでしょうか!?


前半二人はともかく、後の二人はちょっと…な気がしないでもない。



三国志では老将ってのは、実はたくさんいます。老将だらけと言っていいのではないでしょうか。


登場した頃は若手でも時代とともに年は取りますし、若手の頃から活躍しているとどうしても老将というイメージがつきにくいものです。





黄忠、厳顔が代表的なのは、登場した時点でかなりの御年だったからです。


「蜀漢の三老将」って、耳に違和感はないものの、初めて聞く単語です。


っというわけで中国のウィキと言われる?百度で調べてみました。


蜀漢の三老将は黄忠、厳顔、そして・・・廖化!!





「ええ!廖化!?」





と、思った人が結構いるのではないでしょうか?



廖化様の像



私もちょっと意外に感じましたが、言われてみれば、三国志演義後半では老将も老将。現場では、張翼 とともに大活躍したいぶし銀でしたよね。


廖化 蜀の叩き上げ職人武将!劉備流浪時代からの猛者

廖化 part2 北伐に反対し始めた蜀の良将軍



諸葛亮 死後の活躍をざっと見てみますと、


238年9月、廖化は魏の国境に進軍。

郭淮 が派遣した王赟(オウヒン)、その救援に駆けつけた游奕軍を撃破。
オウヒンを討ち死にさせました。


248年 姜維 と共に羌族の治無載らを支援 。魏の郭淮らと交戦。
治無載が故郷に戻るのを助けた。


249年 姜維と共に雍州を攻める。トウ艾 軍に敗北。


姜維の周辺にはいつも廖化が!
黄巾賊 から成り上がった老獪な現場主義の武将廖化。年とともに衰えるどころか、諸葛亮亡く、現場で戦える武将が魏ほど多くなかった蜀軍を支えていたのはまさに廖化だったのではないでしょうか。




黄忠じゃないよ!廖化だよっ!


老将の域に達した廖化様

259年 右車騎将軍に昇進。


261年 諸葛瞻 が朝政を取り仕切り始めたので、宗預 に「一緒に諸葛瞻の家まで挨拶に行こうや」と声をかけたら、「何で先輩の俺らが挨拶にいくのじゃ?」と言われて行くのをやめた。


この辺りも、叩き上げの老将だからと威張るのではなく、若手に対しておおらかな態度で接しようとする廖化様のざっくばらんでお優しいお心遣いが感じられます。



262年 姜維とともに狄道に進撃。姜維の智謀は相手以上ではなく、力量も敵に敵わない、用兵も不十分。これで勝てるわけがないと苦言を呈しました。
結果は敗北。蜀軍は沓中に引きこもることに。


263年 司馬昭が蜀へ侵攻 。姜維とともに剣閣を守備。劉禅降伏。蜀滅亡。


264年 敗戦後、宗預と共に洛陽へ向かう途中に病死。



敗戦のショックと洛陽への長旅。老身には堪えたでしょうな…。
黄巾賊から最前線で活躍していたので、年齢は74歳から83歳の間であろうと言われています。


中国では三国志の三老将と言ったら、すぐに廖化が思い浮かぶのでしょうか?


好きな武将なので、とにかく注目されているようで嬉しいですw



廖化様!!

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コーエーテクモから三国志13が出る?

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どうもっ!



諸葛菜です!



悪評高き三国志12が発売されてからずいぶん経ちましたが、どうやら三国志13の気配も出てきたようですね。


ゲーム三国志12のアマゾン評価レビュー炎上


今年の9月には「2015年に三国志13が出るかも!」と東京ゲームショウで啖呵を切ったそうなので、順調に行けばいいですね。


しかも、来年は三國志シリーズが世に出てから30年。30周年記念となるので出さないってことはありえないと思います。


それだけにクソゲーと言われる作品とならないよう頑張って欲しいところです。


三国志13でググってみると中国語サイトがかなり引っかかりました。


中国でも三国志13の話題は沸騰中らしく、胡散臭い記事ばかり目につきました。


中国の大手検索サイトの百度の掲示板やその他サイトでは、


「三国志13について今のところわかっているのは、城市の数は108箇所以上で、一騎打ちは三國無双系の3D方式が用いられること。更に詳しいことは11月に公開予定」


まあ、これは当てになりませんがね。


一騎打ちの3D画面については、すでに三国志11の頃から採用されていますし、やっぱり立体感があるっていいですね。アクションシーンは。逆に無双から三国志シリーズに対してとてもよい刺激になったと思います。


「以前のシリーズまでは城市の数は数十程度だったのに、100近くになったら占領するのが大変。ゲームクリアまで我慢強くプレイし続けれられるのか?間違いなく飽きる」


で、11月にはかなり発表される予定ですが…今のところ、まだこれといった詳細情報は公開されていませんよね^^;?私の情報不足かもしれませんが。



最高傑作呼ばれている三国志9最高傑作呼ばれている三国志9 を越える作品になるといいのですが。


半分くらい期待して待つことにいたしましょうっ!

三国志!!

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今年もよろしく!三国志後半で楽しもうぜっ!

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新年あけましておめでとうございます!



ご無沙汰しています。諸葛菜です。



昨年は更新頻度が少なかったですが、まだまだ継続していますぞっ!


今年もどうぞよろしくお願い致します。




さて、三国志ネタはあるのですが、どうも武将ネタが少ないんですよね…。


『三国志13』が無事発売してくれると嬉しいのですが^^;



昨年の後半は中国出張がポツポツ入ったものの、三国志ゆかりの地に行くことはできませんでした。

西安に出張したおり、少し時間があったので秦の時代に関する博物館に行ってきました。



秦二世(胡亥)の物語を主体に作られた博物館です。


復元のものもありましたが、展示物は全て本物!


・・・という触れ込みでした^^


偽物が多い中国ですが、西安郊外では様々な遺跡や遺物が発掘されていたので説得力はあります。



以下写真一部をピックアップします。












週刊ヤングジャンプで連載されているキングダムのお陰で、戦国末期から秦成立までの時代も超メジャーになっているのではないでしょうか?


胡亥というのが微妙ですがね…。



中国の古代の歴史好きな人は楽しめると思います。私はあまり詳しくはありませんが、結構楽しめました。


つい最近建てられた博物館ですので、意外と知られていないようなので、もしも、西安に行かれたら立ち寄ってみてはいかがでしょうか。


また後日、こちらのレビューも書いていきますのでお楽しみに!



三国志!!

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魏延 part2 孤高の戦士 謀反を起こしたと思われ楊儀たちに殺されてしまった…

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どうも!

諸葛菜です!


魏延さん・・・孔明死後の三国志演義後半のブログを書き始めてから、なんとなく気になるキャラとなりました。


前回記事:魏延 孤独で自信過剰で勇猛で忠誠心があった蜀の武将


彼に対する不名誉な扱いに対して、同情心が湧いて来ました。




※後ろの馬岱は「埋伏のポイズン」です。




特に、ランボー2の怒りの脱出とかぶりまくりです。




捕虜を連れて脱出し…救出ヘリが目前まで迫ったのに、乗せてもらえず。葫蘆谷の火あぶりとシンクロします。



無線機を手にした魏延が猛る!





「マードック(孔明)・・・殺しに行くから待ってろ…!」


周囲にいたロシア兵(司馬昭、司馬師)をボコり、脱出!


魏延にとってトラウトマン大佐である存在の劉備が死んでからは、諸葛孔明というマードック司令のもとで奮戦。


自分の担う責務が重くなっているにも関わらず、蜀陣営における彼の居場所がだんだんと狭まっていく…。


魏延がランボーだとしたら、楊儀、費イ、趙直らはマードックの取り巻きのモブ軍人です。ヘリコプター運転していた奴が楊儀ねw




さて、孔明死後の魏延の動向を追ってみましょう。
演義でも吉川、横山三国志でも悪者に描かれています。


孔明死す!
その報は、一足遅く魏延のもとに届きました。


魏延は自分の頭にツノの生えた夢を見たので、鬱鬱としていると趙直が、


「吉兆でござる」


と、言われたので純な魏延はこの言葉を信じ有頂天。
死亡フラグとは知らずに…。


魏延は費イから、孔明が死んだことを聞き落胆しましたが、楊儀や姜維に後事を託したのが気に入りません。


費イは楊儀からの伝達事項である「殿(しんがり)をつとめよ」を魏延に伝えました。


楊儀は自分よりも地位が低いのに、いくら諸葛丞相のご遺命とはいえ、はいそうですかとは言えないでしょう。



「楊儀は一長史。おれは前軍征西大将軍南鄭侯だ。楊儀の命令などきけるか!」


ごもっとも!(・ω・)/


非常事態、かつ遺命とはいえ、官位を無視した人選では普段仲の悪くない人間同士でも軋轢が生まれるもの。

楊儀、魏延間ではなおさらです。


もしや、魏延を早々に除くために、あえて軋轢を生じやすい人選にし、互いに牽制し合うよう仕向けたのか…。


恐るべしっ!マードック孔明!( ゚д゚)






孔明が亡くなった今、戦うことはおろか、無傷で撤兵するのも難しい状況です。


そんな中、魏延には内緒で蜀軍は全軍撤退。ひでえ!( ゚д゚ )!!


いくら危険人物扱いされている魏延とはいえ、置き去りはあんまりではないですか?


一兵卒に落とされた馬岱とともに、孔明の棺を持って引き揚げた楊儀、費イ、姜維らを追いかけます。


途中で何平(王平)に遮られましたが、魏延の爆進を止めることはできません。


しかし、魏延の部下たちは戦意に乏しいため、豪胆な魏延も不安になり、魏へ降ろうかと思案し始めました。


自分の部下が逃亡し始めたので、2,3人薙刀でスライスしていました(汗)。


馬岱に説得され、魏へ降るのはやめ、漢中をとり蜀を己のものにせんと企てました。



後は皆さんご存知の通り・・・。


魏延が漢中に到着。そこにはすでに楊儀軍が陣取っており、孔明が残していった錦の袋に入っていた指示通りに魏延をはめました。


「『俺を殺す者があるか!』と三回言えっ!そうすれば漢中を明け渡す」


と、楊儀に言われたので、魏延は3回でも3万回でも言ってやろう!と応じます。


「俺を殺す者があるか!」


「ここにいるぞお!」


馬岱のアタック!
で、皆様ご存知の通り、終了。


浮かばれない最後でした。


横山三国志では董允が到着した際、



「ひと足遅かったか・・・」


と、一言。


もし、このとき董允が仲裁に入って魏延・楊儀らがとりあえず表面上でも和解して帰国したら…。


ランボー2の日本語吹き替え版の時のように、


「俺が国(蜀)を愛しているように…国も俺を愛して欲しい」


と、劉禅皇帝の御前で言って欲しかった…。







皆さんご指摘の通り、劉備時代の蜀陣営と孔明時代のそれとは雰囲気が違いますよね。


どちらが良い悪いというものではありません。


劉備は蓆売りから始まり、凄まじい苦労をして蜀の皇帝となりました。


這い上がっていく過程の中で、諸葛亮のような軍師はもちろん必要でした。


ただ、一騎当千の武将で時には「抜け駆けの功名」(と言ったら言い方が悪いけれど)をするような武将が必要でした。戦の雰囲気を読んで自己判断で押し進めていく我の強い武将がいたことによって、生き残ってこれた部分が多くありました。


他方、劉備が亡くなり、孔明が全面的に指揮をとるようになった頃は、支配する国も大きくなり、国としての機構もほぼ形になりました。


そうなってくると、組織的に運営していく必要があります。


一騎当千型の武将が総司令の命令に従わなかったり、自分なりの判断で動く人物ばかりだと、国・軍隊としてのまとまりが欠けてしまいます。


魏延は勇猛で忠義心はありましたが、孔明他官僚と感情的に合わない事以外に、そういう部分になれなかったのではないでしょうか。


う~ん。
現代の会社組織に似たものを感じますね…。


起業したばかりの頃は、数人の優秀なブレインが強引な手法でもガシガシ営業して売上を上げる。会社が大きくなる。


一部上場すると、社会的な知名度も上がり、組織もだんだんと官僚化してくる…。


こういった変化に慣れないと、干されたり、どこかに飛ばされたりしていますしね・・・^^;



魏延の評価が少しでも変わればいいのになあ・・・。





魏延LOVE!!と思ったら!


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PS:魏延の他にも趙直、李福、楊儀、王平らも今度書かなきゃ^^;

おっしゃるように、かれはまさしく孤高の戦士ランボー。

馬隆 王凌を弔った義人!鮮卑の鎮圧で功績を上げた良将!

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どうも!


諸葛菜です!

馬隆って知っていますか?私はこの記事を書くまで知りませんでした。三国志演義にも当然出演しておりません。名将と言われていても、演義には登場していない良将軍は何人かいますよね。



羅憲 も、王凌も…。



王凌 淮南で司馬家に立ち向かった第一号




馬隆 のウィキリンク。


くっ・・・。ウィキにもそれほど書いていないですね。しかたがないのでチャイ語サイトから訳&アレンジしながらぶっ放します(^_^;)


馬隆字は孝興。彼は兗(エン)州東平平陸の人です。
幼い頃より知勇兼備と言われ、礼儀正しい少年でしたが、家柄がそれほどよくなかったため、なかなか魏要人たちの知るところとなりませんでした。



当時魏の皇帝は曹芳。


エン州の刺史の令狐愚は車騎将軍王凌の外甥でありました。王凌と令狐愚は楚王曹彪を次の皇帝にし、首都を許昌にしようと計画していました。

その計画の途上、令狐愚が病死(249年11月)。その計画は、事前に司馬懿の知ることとなり、反乱は起こることなく、王凌は服毒自殺をしてしまいました。


恐怖の老骨司馬懿 は、それでも王凌を辱めます。王凌と令狐愚の墓を暴き、死体を街に三日間放置。いかにも大陸的です…。
エン州の人々はドン引き。この死体を片付けようとする勇気のある人は誰一人ませんでした。


街の中は腐臭が漂うし…。
やっぱ、怖いです、大陸チューゴ君。


しかし、この死体を回収した漢がいたのです。


それは、当時、一小武官に過ぎなかった馬隆です!


彼は令狐愚の賓客という身分でもありました。

彼はなんと、自分の財産を投げ出して令狐愚の墓を作り、松や柏の木を植えました。
喪に服すこと3年。

馬隆はこのあと、州刺史の佐吏として働きました。


蜀漢滅亡後まもなく、司馬昭が死去、司馬炎が皇帝となりました。

呉を討伐するため、勇将、屈強の者どもを集めました。
エン州からは馬隆が推挙され、彼の才能は良将その者であると言われました。彼は、許都の保安官である司馬督という役職につきました。


対呉戦では活躍しなかったのかな?


当時、270年頃、まだ呉が滅びる前ですね。
西北の鮮卑-晋国境沿いでは、激しい戦いが繰り広げられていました。
かつて、姜維 に雑魚キャラ扱いされていた牽弘 、そして、胡烈が鮮卑の頭目禿髮樹機能ら相手に相次いで討ち死に。

晋の朝廷は、現地へ将軍たちを送り込んでいましたが、まったく勝利することができませんでした。


禿髮樹機能に圧倒され続ける晋軍。
ことによると、中華が鮮卑に統一なんてことになりかねません。


司馬炎のターン。
皇帝司馬炎の次なる一手は一体!?


楊欣 投入ww


はい、そこ、笑わないw!


そう、牽弘、諸葛緒
とともにかつて蜀の知勇兼備の麒麟児と言われていた大将軍姜維をヒット・アンド・アウェイでちょっぴり削ったあの楊欣です!


「ザク(牽弘)とは違うのだよ!ザクとはっ!」


的なノリで行ったんでしょうけど、楊欣じゃなあ・・・。


とにかく、楊欣は涼州刺史として着任。


一方、馬隆は、楊欣では能力不足で、彼の地で必ず負けてしまうと上奏しました。、
案の定、楊欣は器の小ささから任地の羌人からも評判が悪く、怨嗟の声も高まっておりました。
278年、楊欣は樹機能の手下である大將若羅拔能に敗北、死亡しました。


翌279年、樹機能は涼州を陥落させました!
どんだけすごいんだっ!?樹機能!?ニュータイプですか!?
姜維伯約、夏侯覇 …古くは馬岱 ですら抜けなかった涼州を陥落させたとは…!


まあ、当時は郭淮牛金陳泰 、トウ艾がいましたからね。

それにしても、晋の涼州へのガードの低さは一体どうしたこと…(^_^;)?


こうして見ると意外と熱いな…蜀滅亡から呉滅亡までの10数年間。
誰か…作家さん、ライトノベルでもいいからこのへんの時代書いてくれんかね?


とにかく、晋宮は激震です。
司馬炎は殿上で嘆きましたが、満場の文武官は誰一人、司馬炎の憂いを救ってやろうとするものはおりませんでした。


しかし、この時小官であった馬隆は、これは絶好のチャンスと思い、進言しました。

司馬炎が、馬隆にどんな作戦だと聞いてみると、


「3000人の屈強の者どもを集めれば、樹機能を平らげることができるでしょう」


と言いました。


司馬炎はこれを許可しようとしましたが、周囲のモブ文官共が大反対。


「涼州に派遣している兵士は十分。これ以上募兵を行なって、送る必要はない、馬隆のような小物はめちゃくちゃなことを言うものだ」


しかし、司馬炎はモブ共の言うことを聞きいれませんでした。


馬隆はどうやって兵士を集めるのかっ!?
長いので続くっ!(^_^;)


馬隆 part2 鮮卑との戦い!勝利の鍵は磁石にあった!


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秦二世(胡亥)のお墓のあった場所にできた博物館に行ってきた

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どうもっ!


諸葛菜です!



三国志演義後半ネタがなかなか見つからない中、今回は秦の時代についてですw


先日、新年のご挨拶でご紹介しました秦二世の博物館のお話です。




昨年11月に中国西安出張に行ってきましてそのついでに秦2世の博物館に行って来ました。

中国側より「諸葛菜さんは三国志が好きだから秦の時代も好きでしょう」と言われ、半ばウキウキで行きましたw


前回も西安出張のおり、諸葛亮孔明が没したという五丈原にも行きましたので、こちらもどうぞ。




秦の時代については私は、あまり知識がありませんし、春秋戦国~秦の時代の物語と言ったら宮城谷昌光の晏子、奇貨居くべし他数冊と現在週刊ヤングジャンプで連載中の「キングダム」程度です。


しかも、時系列的に物語を読んでいないので、頭の中はグチャグチャです。




しかし、秦二世と呼ばれている胡亥については興味があります。


この博物館は文字通り、始皇帝の嬴政がメインの時代ではなく、胡亥が引き継いでから秦崩壊までの短期間のお話がメインです。


博物館は閑静な住宅街(中国の都市郊外で閑静ってほどでもないのですが…中国にしては閑静です)にあり、高層マンションに囲まれた立派な建物です。



中央の庭には、虎の像が。




これは戦の時に使っていたようです。戦の陣形がどうたらこうたらってことでしたが良うわからん。



博物館内では、様々な出土品が飾られており、器や武器、貨幣がありました。

















本物らしいですよ!


西安の郊外、農村地区ではついこの前まで日常的に古銭が土中から出てきたらしいです。現在でも発掘チームは古代の遺物を掘り返しているようです。



出土品の他、秦の時代の城下町、お城の復元模型もありました。




項羽と劉邦の時代に、都は燃やされ城は30日間?三ヶ月?でしたっけ?忘れちゃいましたが、とにかく長い間燃え続けていたそうです。


模型屋出土品以外にも、影絵の小芝居もあり面白かったです。


有名な「鹿を指して馬と為す」の故事。

宦官超高が鹿を連れてきて、皇帝胡亥と取り巻き連中に「これは馬だ」と言い張った話です。

馬と言った連中は残りましたが、「何言ってんだ。鹿じゃないか」と言った人々はみんな殺されてしまいました。




牢屋に打ち込まれた役人。


影絵では殺されたり、自殺に追い込まれた人々を描いたものもありました。


中国古代史に興味があるので悪くは無かったのですが…。


中国出張11日目に見ると疲れも合わさってか、気分がグレーになりましたわい…。

なんか気が重いんですよね…。


週刊ヤングジャンプの『キングダム』では、秦が上り坂のまだ皇帝になる前のお話ですので、スカッとするシーンが多いですが、これに慣れたあとでこの博物館に来ると一気にズズーンと来ます^^;


うちの弟はキングダム好きでキングダムコミック 1-36巻セット を全て所持しています。

その弟に司馬遼太郎「項羽と劉邦」第一巻冒頭の嬴政の晩年を見せてあげました。


蒙恬が牢獄にぶちこまれ、自殺。
超高が権限を得て李斯を追い込み、死刑。



のっけからキングダムの光り輝いている武将たちの非業の死から始まり、ちょっと引いてましたね。



中国はいつの時代もHELLだよなあ~。

大量虐殺する権力者が多く生まれる土壌はやっぱり大陸的なのか…。



三国志と話が離れてしまいましたがお許しを^^;

機会があれば、三国志史跡めぐりもしてみたいです。


三国志!!

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巨星墜つ…陳舜臣が死去

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一週間近く経ってしまいますが…陳舜臣さんが亡くなったことをニュースで知りました。



http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/20/chin-shunshin_n_6512890.html


陳舜臣さんの本は何冊か読んだことがありますが、「秘本三国志」はまだ読んでいません。



司馬遼太郎さんが亡くなった時は、諸葛菜はまだ高校1年生だったかな。



あの時はショックでしたね…。竜馬がゆくなどの歴史小説を片っ端から読んでいる最中でした。



「司馬遼太郎さんと双璧をなすのが陳舜臣さん」と勝手に思っていました。



陳舜臣さん作の中国語で書かれた「太平天国」は途中までしか読めなかったけど…確か非常に読みやすかったです。家にあるかもしれないのでもう一度探して読んでみようかな。



老衰のため死去。



90才は大往生ですね。



ご冥福をお祈りします。



秘本三国志を探しに行ってきます。



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三国志後半武将人物名鑑


中国の自動車整備士が関羽ロボを制作!

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どうもっ!



諸葛菜ですっ!


中国の関羽ロボが作られたようです!



http://image.wenweipo.com/2015/01/17/a17f.jpg



浙江省寧波の雲龍鎮の甲村で、鋼鉄の関羽が制作されています!
作っているのは自動車整備士の王栄さん、周さん、沈さんの3名。




足はまだできていないようですが…。



あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ!



80パーセント?冗談じゃありません。現状で関羽の性能は200パーセント出せますからっ!



…まあ、冗談はさておき。




材料はスクラップをつなぎあわせて作ったそうで、周さんは芸術的なセンスの他、溶接技術も持ち合わせており、陳さんは足場を組む技術と高い溶接スキルを活かして、『関羽ロボ』の制作に取り掛かりました。



大型ロボットを作るのは周さんの夢であったし、王さんは中国の有名な人物を作りたいと思っており、3人は忠義の象徴でもある関羽ロボを作ることに決めたそうです。


関羽の青龍偃月刀はなんと250kg!



中国の旧正月までに完成させたいとのことです。

高さは10メートル、重さは10トンになるようです。


いい感じで仕上がっているようですね!




今回のニュースはほっこりしました。


他の国のキャラクターをパクったものしか作らず、それで銭儲けしか考えないケースが多いですが、今回は全く違います。


名もない3人の溶接技術者たちが、あくまでも趣味で自分たちの国の人物をモデルにして制作に励む姿にちょっと感動しました。


手作り感たっぷりで、出来損ないの日本のアニメキャラクターのパチもんなどとは比べ物になりません。


両肩の自動車のドアの部分を見ると、トランスフォーマーっぽくて良いです^^



純粋な気持ちが込められていていいなあ~。




三国志!!

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ラストサマナー

王瓘(オウカン) 結果的には鉄砲玉(涙)!君のことは忘れない…姜維に挑んだ魏の忠臣!

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どうも!


諸葛菜です!


鄧艾(トウガイ)軍の参謀王瓘(オウカン)です。
彼の活躍を知る人は意外と多いのではないでしょうか?


でも、なんとなく影の薄いキャラです。



黒のソーマを身にまとう




登場回は演義第114回。


司馬昭・賈充らが曹髦 を殺害。
この由を知った姜維は小躍りして北伐軍を起こします。


祁山に陣取っていたトウ艾はすぐに諸将を集めて軍議をしたところ、参軍王瓘(オウカン)より意見がでました。




三国志演義後編、三国志人物辞典 諸葛孔明死後の物語と活躍した武将、マイナー雑魚武将を書こう!


「それがしに考えがござりますが、あからさまに言うことは出来ませぬゆえ、ここに書き物にして持参いたしました。なにとぞご覧下されませ」


軍議ですら発言することをはばかるような策…いったいどんな…?


「いかにも妙計じゃが、果たして姜維がこの手に乗るかな」


と、トウ艾。


「それがし命がけで参ってみます」


「そなたの心さえ固ければ、必ずしおおせるであろう」


と、あっさりとGOサインを出してしまいました…。



慎重なトウ艾にしてはちょっと簡単に決め過ぎではないでしょうか。


さて、王瓘(オウカン)は5000騎を率いて、蜀の陣営に降伏を請いに行きました。


「ソレガシは王経 の甥の王瓘(オウカン)と申す者でござります。このほど、司馬昭が天子を弑し、叔父の一門を皆殺しといたしましたので、いたく恨みに思っていたところ、この度幸いにも将軍が征伐の軍を起こされたと聞き、手勢五千をひきいてご膝下に馳せ参じました。おさしずにしたがって奸賊を打ち滅ぼし、叔父の恨みを晴らしたく存じまする」




三国志演義後編、三国志人物辞典 諸葛孔明死後の物語と活躍した武将、マイナー雑魚武将を書こう!


これには姜維も大喜び。
蜀軍が困っているのは兵糧とその輸送のみ。是非、王瓘(オウカン)に輸送をお願いしたいとのことでした。


これには王瓘(オウカン)もしたり顔。


計略なるか…。


姜維は王瓘(オウカン)の兵2000を傅僉の軍勢に繰入れ、3000は王瓘(オウカン)とともに輸送の任につきました。



事情通の夏侯覇は、王経に甥などいないことを姜維に伝え、こんな計略にハマるとはらしくないと言いますが・・・、


姜維ももちろんお見通し。
司馬昭ほどのしたたか者が、甥を殺さないわけがない。


王瓘(オウカン)は次々とトウ艾に使者を派遣しましたが、いずれも姜維の手のものに捕縛される始末。


某月某日、糧秣を運ぶのでそこで蜀軍を襲う旨が、蜀軍にバレてしまいました。


姜維は兵糧車に火薬を詰め込み、傅僉のもとにいる魏兵2000に命じて輸送させました。


トウ艾はニセ使者の文書を見て大いに喜び、出陣。


当然、今回は姜維の計略がドハマリ。
伏兵の廖化・張翼に挟まれ、味方と思われた糧秣車の一団が傅僉(フセン) だったので、壊滅寸前です。


これを知った王瓘(オウカン)は無理やり出陣。



三国志演義後編、三国志人物辞典 諸葛孔明死後の物語と活躍した武将、マイナー雑魚武将を書こう!

討って出るのじゃ~!!



蜀軍と戦いを続けながら、魏へ向かわず、漢中へ向かいました。追いつかれないよう陣屋、桟道をすべて焼き払いました。



三国志演義後編、三国志人物辞典 諸葛孔明死後の物語と活躍した武将、マイナー雑魚武将を書こう!

十分敵を引きつけておき・・・


三国志演義後編、三国志人物辞典 諸葛孔明死後の物語と活躍した武将、マイナー雑魚武将を書こう!

メラゾーマっ!


姜維は仕方なくトウ艾を諦め、王瓘(オウカン)を追うことに。




三国志演義後編、三国志人物辞典 諸葛孔明死後の物語と活躍した武将、マイナー雑魚武将を書こう!



四方から囲まれる王瓘(オウカン)。

奮闘しますがついに力尽き、黒竜江へ身を投げます。



三国志演義後編、三国志人物辞典 諸葛孔明死後の物語と活躍した武将、マイナー雑魚武将を書こう!
黒竜江へダイブ~~~~っ!!!



陣屋、桟道を破壊、兵糧を失わせた王瓘(オウカン)の攻撃は蜀にとって相当な打撃でした。


この奮戦ぶり。後半にしてはとても熱い武将だと思います。

結果的に自爆しましたが、このような自爆攻撃は、弱小国が強国に対して使用する計略であって、大国が小国に使う計略ではないですよね。


普通の武将なら、失敗した時点で何がなんでも戻ろうとするでしょうし、姜維が出しぬかれたのも納得です。


蜀に対する恨みも深いのでしょうな~。


やっぱり、魏には人材が豊富だなあ…と。


王瓘(オウカン)と退治のあと、生き残った王瓘(オウカン)軍を姜維が生き埋め。




三国志演義後編、三国志人物辞典 諸葛孔明死後の物語と活躍した武将、マイナー雑魚武将を書こう!

一仕事終えた感のある、漢姜維と夏侯覇。


「畜生、てこずらせおって・・・」



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王瓘(オウカン)


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傅僉 後期蜀の鬼神!姜維からの信頼も厚い無骨漢!

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どうも!


諸葛菜ですっ!


諸葛菜お気に入りの火の玉燃え武将傅僉だぜい!



やあ~!(゚Д゚)

傅僉のウィキリンク


演義での登場回は第112回。


魏の将軍は郭淮、陳泰、鄧艾、鄧忠、司馬望、徐質…戦闘タイプの武将が次々と登場、本国にも強力武将が控えています。

片や、蜀軍は新手の武将が出てきません。


が、ここへきて傅僉が登場。

姜維は連日軍勢の調練に当たらせていた、剛腹の荒武者傅僉であった。それと一応…蒋舒も。

姜維のお気に入りです。


部下からの信頼も厚いようで、兵士からも慕われています。


対するは司馬望軍。
王真・李鵬なる二将を引き連れて対峙。


王真がまずは仕掛けます。
蜀陣営からは傅僉が出馬しました。


(抜粋)
10合も打ち合ったか、傅僉はわざとすきを見せ、王真がえたりと槍を繰り出すところ、さっと身をかわすなり、彼を抱き取って自陣に引き揚げる。李鵬が大いに怒り、薙刀を振い馬を飛ばせて救いに出たが、傅僉はそ知らぬていで、李鵬の近づくのを待ち、力いっぱい王真を地面に叩きつけると、ひそかに四角の鉄扇を握った。かくて李鵬が追いすがり薙刀を振り上げてあわや斬り下ろさんとした刹那、きっと振り向きざま、彼の顔面を一撃、李鵬は目の玉が飛び出して馬の足元に死んだ。王真は蜀の兵士たちに突きまわされて死ぬ。



傅僉、圧勝です。
ミンメイにありましたが、あれは脚色です


第112回は、孔明死後の三国志演義では武将同士のアクションシーンが最も多いです。この後、姜維と鄧忠も一騎打ち をしています。


この戦いの前に、姜維は傅僉に「どこを攻めたらよいか」と質問しています。


「魏の糧秣は、全て長城にたくわえてござります。一挙に烙谷より沈嶺を越えて長城を突き、まずかしこの糧秣を焼き払った後秦川を抜きますれば、中原は容易に取ることがかないましょう」



廖化・張翼の北伐モチベーションが下がる中、荒武者傅僉はポジティブシンキングで姜維を精神的にサポートしています。



第113回にも名前だけですが登場しました。

黄皓が党均に抱き込まれなければ、勝っていたかもしれない戦です。



第114回
魏の王瓘(オウカン)なる男が偽の投降をし、蜀軍をかく乱させようとしました。
姜維・夏侯覇はこれを見抜き、王瓘(オウカン)を餌に鄧艾をおびき寄せ袋叩きにします。


このとき、傅僉も大活躍。


鄧艾の真正面に躍り出るや、


「下郎、鄧艾。もはやわれらの大将の計に落ちたぞ。いさぎよく馬を下りて死ね」


なんでかわかりませんけど、このセリフ笑ってしまうんですよね。


糧秣車に着火。
大将とは違い、有言実行です(汗)。



第115回
Let's北伐!


姜維はキ山で鄧艾と互角以上の戦いを演じました。その際、傅僉は陣地を守備するよう命じられていました。

鄧艾を追い詰めますが、黄皓の策により、姜維が成都に召還されてしまいます。

成都では厭戦気分が色濃く、姜維ですら身の危険を感じるほど。姜維は漢中にでて屯田し、傅僉は蒋舒と共に陽安関(または陽平関)を守備することになりました。



第116回
鐘会軍来襲。


蜀に対しては、基本的に専守防衛だった魏軍がついに南下!
弱りきった蜀を叩き潰さんと南鄭関 に迫る!


架空武将の盧遜 も討ち死に。


傅僉の守る陽安関にまで達します。

傅僉は副将の蒋舒と早速軍議を開く。


蒋舒、
「魏の軍勢はあまりにも多く、まともに戦っては勝ち目がござらぬゆえ、守りを固めるがよろしゅうござりましょう」


「いや、違う。敵は遠路はるばるやってきたものゆえ、疲れきっているに違いない。我らが売って出ねば、漢・楽二城は守りきれまいぞ!」


傅僉の言葉に蒋舒は黙然とする。


蒋舒め・・・いったい何を企んでおる・・・(-"-;A。


魏の大軍が押し寄せてきたと注進が入ります。



衆を頼んだ魏の総司令官鐘会 の旦那は、


「わしはいま10万の大軍を率いてきたのじゃ。早々に関をあけ渡せば、官位によって取り立ててやろう。が、もし蜀にいらざる忠義立てをすれば、ひともみに踏み破って、一物残さず焼き払ってくれようぞ!」




傅僉は爆怒。
蒋舒に後を任せ、3000騎を率いて打って出ます。
意表をつかれた鐘会は戦わずして逃げる。


魏の大軍が再びまとまってかかってくると、小勢の傅僉は苦戦を強いられ、関に退こうとしました。


傅僉が退こうとすると、関の上にはすでに魏の旗が・・・。



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「わしは魏に降参したぞっ!」


と、蒋舒が叫ぶ。


くっ・・・この変わり身の早さ・・・!


「恩知らずの不義者め!天下のものに恥ずかしくはないか!」


傅僉めげずに魏の軍勢に斬りいるっ!


もうだめだ・・・逃げろ!逃げてっ・・・!o(TωT )


魏の軍勢はひしひしと傅僉を取り囲む。


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ここから傅僉は無双発動!!∑(゚Д゚)


右に左に暴れまわる!


鐘会の軍勢は大軍…雑兵、モブ騎兵の大群に阻まれ、かぶと首までたどり着けない…。

身体には矢傷、刀傷を負い、傅僉の屈強な側近たち10人も8,9人まで傷を負う始末。


「蜀の臣と生まれたからは、死しても蜀の鬼になろうぞ!」


と、絶叫するや、ふたたび馬に鞭打って斬りいるっ!


ヒットポイント(HP)をマジックポイント(MP)に転換して無双続行!!

無数の魏兵に、側近たちは次々と討たれていきます。


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使命は…果たした…(byブロッケンjr)



数々の槍先をこうむり、ライフポイント(LP)すらゼロに・・・。

馬も倒れたので、自ら首を刎ねて死んでしまいました。



後の人が嘆じた詩に、

一日 忠憤をのべて
千秋 義名を仰ぐ
寧ろ 傅僉となりて死せんとも
蒋舒 となりては生くまじ


中文
一日抒忠愤,千秋仰义名。
宁为傅佥死,不作蒋舒生。


初めて三国志演義を読んだとき、傅僉の死に様は泣けた…。

雑魚武将、外道武将が大半を占める後半において、死して忠臣の意地を見せてくれました。

今度は傅僉の子孫たちを書いてみようかな。


傅僉無念と思ったら、ワンクリックよお~~!!


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馬隆 part2 鮮卑との戦い!勝利の鍵は磁石にあった!

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どうも!

諸葛菜です!



出落ち武将はいないかと検索をしていたら偶然見つけた馬隆!

こいつは以外にも大物だった!

登場当時の身分は低いですが、ビッグキャラでした。

調子に乗って続編!


前回の記事はこちら

馬隆 王凌を弔った義人!鮮卑の鎮圧で功績を上げた良将!


牽弘、胡烈・・・そして、楊欣。
魏の時代からの歴戦の勇士たちが、鮮卑との戦いで次々と戦死。


モブ文官、武官どもが何の手もなく押し黙る中、鮮卑討伐に立候補したのが馬隆です。

周囲の反対があったもの、司馬炎は馬隆に3000人の兵士を募兵し、鮮卑討伐に行く事を許可しました。


募兵といっても、朝廷の役人どもは馬隆に3000人の兵士を与えることに反対しております。金や兵糧のサポートがありましたが、自分で募兵しなければなりません。

街なかで募兵の旗を立て、自ら呼び込みをかけました。


結果はなんと、一日で3500人の兵士を集めました。
いずれも大力の持ち主で屈強の者ども です。
どこから、こんな猛者共を集めたのかと質問しましたが、馬隆は



「どこから来たのかだって…?出身は問わねえ!」



と一言。
集まった兵士はゴロツキ、チンピラ、流れ者ばかりですが、腕は確か。

こういった人達が集まってくるのは、馬隆も黒社会的な人脈があったのか…、いや、こういった人たちをも吸収し、まとめていける器があったのでしょうね。






詳細な練兵法はこちら。

焦伯 曹髦のために散った、隠れた忠義の士!華麗なる出オチ!



しかし、モブ文官共の嫌がらせは続いています。


人数が揃ったあと、馬隆は武器庫に行って装備を整えようとしましたが、提供されたのは、曹操時代…曹魏の頃の骨董品ばりのボロボロ武具でした。


ザク・マシンガン、ビームスプレーガン…こんな1年戦争時の武器でネオ・ジオンの新型モビルスーツと戦わされたら、誰だって怒ります。


典韋が使っていた双鉄戟、徐晃の大斧などがあれば幾らかマシでしょうけどね(^_^;)



まあ、冗談はさておき。

馬隆は司馬炎に文官から嫌がらせを受けていることを伝え、新品の武器と3年分の軍事物資を提供してもらいました。


279年冬。馬隆は武威に向かいました。
小さな馬車の上に小屋のような物を建て、戦車として武装させました。


さらに諸葛亮が用いた八陣の法を用い戦車で戦場を蹂躙、多くの鮮卑兵を屠りました。

突髮樹機能の軍隊は数万人いましたが、馬隆は寡兵で持って大勝利を得ました。


この時、鮮卑軍の被害は数千人以上出たといわれています。


馬隆がこの大軍を破った方法は何だったのでしょうか?



それは、磁石です。



馬隆は武威に磁石がたくさんあることを知っていたのです。

兵士たちに磁石を狭い道の両側に運ばせ、小さな峡谷となるように積み上げさせました。

戦いの前、馬隆は自軍の兵士に兵士に鉄の武具を外させ、皮の鎧を装着させました。


鮮卑と衝突しても、最初はわざと負け、この磁石の峡谷へおびき出しました。鮮卑軍の兵士はいずれも鉄の甲冑をつけていたので、磁石の峡谷に差し掛かると思うように進軍できません。


馬隆は、当然ここに兵士を伏せておきました。


馬隆の精鋭部隊である愚連隊が鮮卑兵に襲いかかるっ!


皮の鎧を装備している馬隆軍の兵士の動きは素早く、動きの鈍くなっている鮮卑軍を次々と屠りました!



兵士一人ひとりが無双乱舞!


鮮卑軍は、馬隆軍の兵士たちの動きが自分たちと比べてあまりにも敏捷なのを見て、神霊の守り神が宿った軍隊だと信じこみ、馬隆軍と戦うことを恐れました。



一方朝廷では、馬隆からの通信が途絶えたため、



馬隆軍全滅!
馬隆オワタw
馬隆は吉が少なく、凶の多い人物だ。


などの流言が流れていました。

司馬炎が落ち込んでいるところに武威前線から、馬隆の使者がやって来ました。


馬隆軍大勝の報告を受けた司馬炎は大喜び!


モブ文官どもの意見を聞き入れなかったことを、一人喝采。
馬隆に宣威将軍の地位を与えました。



馬隆はその後も、鮮卑首領の猝跋韓、且萬能ら10000人を降参させました。

この戦では鮮卑軍数万人を討ち取った言われています。


馬隆はさらに、降参した戎没骨能らを従えて樹機能と戦い、勝利。ついに涼州を平定しました。

朝廷では、馬隆とその将兵らに重い恩賞を与えるかどうか協議が開かれていました。



モブ文官どもは、


「もうすでに将軍の位を与えているのだから、更なる恩賞は必要なし!」


という意見が多かったのですが、衛將軍の楊珧という人がこれに反対。


「功績は偉大なので、恩賞を与えるべきだ」


と主張しました。
この意見を入れた司馬炎は、馬隆ら将兵に官爵と重い恩賞を与えました。



290年、馬隆は十数年の功績により官職も上昇。
涼州、西平のみではなく、朝廷にもその名は鳴り響いていました。


この時、馮翊、厳舒たらいう者どもが、すでに高齢になっている馬隆を陥れるため、皇室の外戚である楊駿なる人物に取り入ります。
「馬隆は高齢のため、判断力がなく、軍務を取ることができないから西平太守をやめさせるべき」と奏上しました。


司馬炎は馬隆を引退させ、厳舒を太守にしました。
太守交代間もなく、羌族他異民族が大結集して反乱を企て、住民たちは大パニック。
司馬炎は、10数年前に起きた樹機能の反乱を思い出し、厳舒を免職させ、馬隆を復職させました。


馬隆は復職してから後、西平太守のまま、その地で天寿を全うしました。


息子の馬咸も優秀で、勇猛な人だったそうです。
八王の乱で亡くなられたようですが・・・。


う~ん、三国時代以降を知らない私にとっては新鮮でした。馬隆の存在。

三国時代の頃はまだ、それなりの官職についていなかったし、目立ちませんでした。おまけに演義では司馬懿と王凌の絡みは一切無いので、演義デビューは全く無理でした(^_^;)


義があって叩き上げの武人。
戦国モノの歴史では、光る存在です。この地味地味な三国時代後半、主要キャラが小粒になっている中で馬隆の存在は一際輝いているのではないかなと。


いいねっ!と思われたら、ツイッターとかで馬隆の存在を爆散してくださいっ!



馬隆に清き一票をっ!

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馬隆よ、永遠に・・・



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司馬師 司馬懿の長男 魏の曹芳を廃位 飛び散るお眼眼・・

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どうも!


諸葛菜です。


今回は大物、父の横取りイズムを継承した司馬師です!


司馬師のウィキリンク

父:司馬懿 弟:司馬昭 叔父:司馬朗、司馬浮



孔明死後の活躍は、司馬懿と一緒に死せる孔明を追撃したところから始まります。


魏の曹叡が絢爛豪華な建物を建造したり、蜀では孔明死後、人事面の後処理をしていました。司馬師はその頃のんびりしていたのか、活躍ぶりは描かれていませんでした。



数年後、遼東の公孫淵が燕王を自称。


親父の司馬懿が討伐に向かいます。


司馬師もチョイ役で登場。



卑衍・楊祚がやられ、公孫淵籠城。

公孫淵が2回にわたり降服の使者を司馬懿に差し向けたが、いずれも却下。


公孫淵が切羽詰まって飛び出してきたところに、



(原文)

一手の軍勢が行く手をさえぎった。正面に控えたのは、これぞ司馬懿。左には司馬師、右には司馬昭が控え、二人、大音声に、



「逆賊!そこ動くな!」



おいしいところだけを持っていきました。

背景の効果音はゴゴゴゴゴゴ・・・、したり顔で公孫淵を待ち受けたシーンが目に浮かびます。



それから、時が流れ、曹爽は司馬懿を太博に昇進させ、実権を握った。



司馬懿クーデターのくだりでも出番はほとんど無し。

司馬懿が曹爽を欺くために、病人を装い、本当に心配してきた曹爽側近の李勝さんを親子三人でだましたシーンくらいです。



蜀へ亡命した夏侯覇、姜維が北伐。

陳泰・郭淮が大健闘し、蜀軍を打ちのめし、姜維もほうほうの体で陽平関へ引き揚げる。



5万の魏兵が、ぼろぼろになった姜維軍を捕捉。

見事な追い討ちです。


さて、その大将は…?


(原文)

この人、顔丸く耳大きく、四角い口に厚い唇、左の目の下に黒いこぶがあり、こぶには真っ黒な毛が数十本も生えている。これぞ司馬懿の長子、ヒョウ騎将軍司馬師である。




こぶの毛までしっかり描写して、鳴り物入りで登場!


どうでもいい情報満載だぜっ!∑(゚Д゚)


演義後半に出てくる登場人物を、3行も使って描写するとは、羅漢中の司馬師への愛着を感じます。




姜維と直接矛を交わしますが、三合もせずして敗退。

その後も毒連弩rainに遭い、のこのこと帰国。



これがショックだったのか、司馬懿が死去。

後事を司馬師、司馬昭に託し、司馬師自身は大将軍となりました。




呉の孫権が亡くなった虚を突き、侵攻を企てます。

とはいえ、魏の重職についたばかりなので、出陣は弟の司馬昭。




司馬師、曹芳を廃す



へたれといわれていた曹芳も、自分が司馬氏にないがしろにされていることに気づき、夏侯玄、張緝ら数名と共に司馬師暗殺を企む。



お約束どおり、司馬師がこの動きを察知。

夏侯玄らも、おべっかをつかって司馬大将軍は伊イン、周公ですとか持ち上げますが、




「心では王莽、董卓だと思っておるくせに」


「まぶたが赤くなっておるぞ!天子と何を話していたか!?」



司馬師はすべてお見通し。



ブチ切れた夏侯玄に殴られそうになりましたが、屈強な者どもに捕らえさせ、夏侯玄らを血祭りに上げました。




残りは、張本人の曹芳。

司馬師自らがズカズカと曹芳の部屋に入り、



「晋の父親は陛下をお立ていたし、その功は周公にも劣らぬものでござる。また、臣が陛下にお尽くしした功も、伊尹と変わることなしと存じます。中略 臣ら兄弟を亡き者にしようとなされたのは、なにゆえにござりますか」



…よくしゃべりやがんなあ・・・こいつ…



さらに、司馬師は曹芳の妻、張皇后を引きずり出し縊り殺す。



翌日、司馬師は文武百官を集め、自ら朝礼。



「今日、天子には荒淫無道にして、(中略)天下の主にふさわしくない。(中略)新たな天下を立てて社稷を保ち、天下を安んぜんものをと思うのであるが、ご一同の意見を伺いたい!」



伺いたいも何も…意見を言ったらひねり殺されるだけです。文武百官みな聡明。



「待てっ!陛下はご聡明にあらせられるぞっ!」



などと、列中より飛び出してくる痴れ者はゼロ!



「異存のあろうはずはござりませぬ!」


と、一同GOサイン。


その後、曹髦を新皇帝に立てることとした。


曹芳を廃したことで淮南の毌丘倹が叛乱。

さしもの司馬師もこれには仰天。



司馬師のこぶの痛み激しく、療養中のため出馬したくないとコメントしているのに、傍らに控えていた鐘会に出陣を求められ、やむなく自ら出陣します。


「やはりわしがゆかねば、打ち破ることはできぬっ!!」

・・・そうか?(;^_^A

司馬昭に洛陽での雑用を任せ、厚手の敷物を敷いた車に乗って出陣。

司馬師みずから陣頭に立ち、王基、鄧艾らをうまく使い、毌丘倹を追い詰めます。


しかし、本陣に文鴦が乱入。


散々に切り立てられ、司馬師の陣も動揺します。


これに怒った司馬師は、こぶの切り口から目が飛び出し、あたり一面血の海に・・・。


死ぬ苦しみであったにもかかわらず、士気が下がるのを慮って、布団をかみ締めてこらえました。


司馬師、よく我慢した・・・。

すったもんだで毌丘倹の乱を鎮圧しますが、司馬師は病の床につき、明日をも知れぬ命。



枕頭に夏侯玄、張緝が現われ、死を覚悟した司馬師は弟の司馬昭を呼び、後事を託します。


「わしの権限は余りにも重く、これまでもみずから大任を逃れようと思ったが、それもできなかった。そなたもわしのあとを継いだら、決して軽々しく大事を他人に託すではないぞ。みずから一族を滅ぼすようなことになるからな」


と、言い残すなり、目の玉が飛び出して死んだ。


これはもう一方の目が飛び出したのではなく、中国古典の大げさな表現だと思います。

毌丘倹との戦いで、すでに飛び出しちゃってますしね。



司馬昭はすぐさま洛陽に戻り、司馬師の国葬を行いました。


司馬昭の身辺に司馬孚、司馬チュウ、司馬望が並び、魏の文武百官および兵士らの前で、司馬昭が演説を行った。


「我々は一人の英雄を失った。これは敗北を意味するのか?否!始まりなのだ!


一握りのエリートが中華全土に膨れ上がった人民を支配して数百年、魏に住む我々が自由を要求して、何度諸葛亮に踏みにじられたかを思い起こすがいい!


司馬家の掲げる、人類一人一人の自由のための戦いを、神が見捨てる訳は無いっ!

私の兄、諸君らが愛してくれたシ・シバは死んだ、何故だ!?」




鐘会「坊やだからさ・・・」



「戦いはやや落着いた。諸君らはこの戦争を対岸の火と見過ごしているのではないのか?


司馬師は、諸君らの甘い考えを目覚めさせるために、死んだ!戦いはこれからであーる!

人民よ立て!悲しみを怒りに変えて、立てよ人民!司馬家は諸君等の力を欲しているのだ。ジーク・(略)!!」



ジーク・○○!ジーク・○○!




姜維「何を言うか!曹家の独裁を目論む男が何を言うのかっ!」



劉禅「どくしゃい・・・?」




司馬家に栄光あれっ!と思ったら


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ラストサマナー

許褚(チョ)の息子許儀 超無念!インフラ整備に失敗し南鄭関に散る!

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どうも!


三国志物語後半の非業に倒れたマイナー勇士が大好きな諸葛菜です!


今回はそんなマイナー武将でも、血筋がばっちりな許儀!!

行ってみよー!


凛々しいぜ!


許儀

父:許褚(チョ) 子:許綜

その他:三国志演義で勇将との表記が・・・


許儀のウィキリンク


263年、蜀の国力が衰えたと見るや、司馬昭が鐘会、鄧艾に命じ蜀征伐を命じます。

許儀は鐘会の部隊に組み込まれます。


鐘会は、

「誰かが先鋒になって、山に道を切り開き、川には橋を架けよ」


と諸将に先鋒となるものを募ります。


「それがし、参ります!」


虎将軍許チョの息子許儀が立候補!!



この時はうれしかったですね~。

許チョの息子が出てきただけでも期待度大!

どんな暴れっぷりを披露してくれるのかと、楽しみにしていました。



さて、諸将も


「許儀殿でなくばかないますまい」


と皆さんこぞって許儀を持ち上げます。

鐘会も、


「そなたは勇将として、親子ともども聞こえ高いものであり(中略)いずれも険しいところばかりゆえ、兵士たちに道をならさせ、橋を直させ、山をけずり石をくだかせて、遺漏なきようにせよ。仕損じたら軍法に照らして処分するぞ



ぬうう・・・許儀の頭上の死兆星が発光し始めた・・・。


許儀、戦で一番大切な役目の一つをおおせつかりました。

戦では兵站、兵糧の輸送、道の整備はとても大切な仕事。

むしろ、許儀は先陣を切っての突撃、乱戦に適していると思うのだが・・・。

勇将許儀、地道な作業は抜かりなくできるのか・・・?


それにしても、鐘会のだんな、いきなり軍法に照らすって厳しすぎないスカ!?

こいつ(鐘会)・・・すぐ人のこと脅すんだよな・・・。



許儀VS蘆遜 in南鄭関

許儀は約6000の兵を従え南鄭関に到着。

関を守るのは蜀の大将蘆遜。


「この関を破れば漢中であるぞ!関を固めておる軍は無勢じゃ。一気に攻め破れい!」


その前に言われたことはちゃんとやったのかい...?


許儀突撃~~!!


相手が無勢とはいえ、勢いだけでどうにかなるのか!?

ちょっと心配だぜ、許儀大将!



いきなり連弩の雨あられ!!



騎馬隊は乱れ、ばたばたと倒れて総崩れ。

許儀、あわてて退却して、鐘会にご注進。


鐘会も突撃しますが、足元の土が崩れて落馬寸前に。


南鄭関は落ちますが、鐘会は許儀を呼び出し。


「貴様は先鋒となったからは、山あれば道を開き、川あらば橋をかけ、橋梁・道路の修復に専念して味方の進むのを助けるのが当然の役目であろう(中略)命令に背いたからは容赦できぬ!!」


左右の者たちも許儀を推薦した手前、命乞いします。


「彼の父親許チョは数々の大功を立て(略)」


「軍法をゆるがせにして、兵士たちにしめしがつくかっ!」


諸将の諌めも聞かず、鐘会はブチ切れ!
許儀の首を斬り、さらし者に。



なんすかね・・・曹操、曹丕時代の功臣の子孫に対してずいぶんぞんざいな扱いですな!(怒)

そういった功臣の子孫を殺すことで、自分の恐ろしさを周囲に知らしめています。

中国でよくありがちな新興勢力が旧勢力を抑えるために使う手法・・・。


高校時代、許儀が斬首されたのを知ったときはショックでした。

許チョの活躍を思うとかなしいの一言です。

討ち死にではなく処刑とは。


三国志7で許儀は登場します。

ステータスが低すぎるので、次回作からは武力をUPさせてほしい!


許儀っ!


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東呉の南斗五車星1人目! 孫歆(ソンキン) 末期呉を彩ったモブ特集weekです!

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どうも!


諸葛菜です!


孫キンだろ?知ってるよ~!
杜預に蹴散らされたモブ将軍どもの一人だろ?


う~ん、わかっている人は少ないでしょうな。


後期、否、末期の呉と言ったら孫皓の横暴が目につきますよね。
演義に出てくる武将と言ったら出落ち死体武将ばかり。


しかし、末期呉を救うべく駆り出された立ち上がった武将たちもいるのです。


その一人目、孫キン将軍です。



孫キンのウィキリンク


演義第120回。


司馬炎は呉討伐を決意。
杜預、王濬を始めとする猛者どもに大軍を率いさせ、南下。


孫皓は丞相張悌、司徒何植、司空トウ修を呼び寄せ迎撃策を協議。


「驃騎将軍孫キンに夏口その他の敵勢を防がせましょう」


孫キンは呉軍の先鋒となって、晋の精兵を迎え撃ちます。


手に汗握ります。
相手はあの杜預ですから。


両軍衝突。


しばらく戦ったあと、杜預が退却。
勢いに乗って孫キンが追撃します。


が、そんなに話はうまく行きません。当然です。あの杜預ですから…。


伏兵に弓を発射され、更に杜預軍が反転。
呉の兵士が次々と討ち取られていきます…。


「退却だあ~」


城へ閉じこもって閉門。

これで、籠城すればしばらくはもつ・・・。


と、思ったら敗軍の中に杜預の配下周旨とその部下800人が紛れ込んでいました。


孫キンは大仰天。


「晋の軍勢は、長江を飛んで渡ったのか!」


これが断末魔となり、周旨に両断されました。


…すばらしい。
最終回でのモブ武将、もしかしたら孫家の皇族の方なのに、この散りざま…。


Good!!



で、ウィキを見てみると、


79年、晋が呉討伐戦を起こすと、防戦にあたった。翌280年、晋の杜預が管定、周旨、伍巢らを率いて奇兵800人で舟で楽郷に夜襲を仕掛けると孫歆は大敗した。孫歆は味方の伍延に手紙を送り、「北から来た軍は空を飛んで江を渡ってきた」と告げたという。その後も連戦連敗し、孫歆は捕虜となり、身柄を洛陽に護送されたという(『晋書』「杜預伝」)。

参照元:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E3%82%AD%E3%83%B3


死んでねえぜ、孫キン…!


羅貫中御大のモブいじりここに極まれり。


コーエーも羅貫中にいじられた孫キンをイメージしての顔グラフィック作成。


恐るべし羅御大!!


羅貫中最高っ!!


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東呉の南斗五車星2人目! 陸景 末期呉を彩ったモブ特集weekです!

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どうも!


諸葛菜です!


五車星の中にも優秀な一族の血脈を誇る人物がいます。
もちろん、孫氏などではない・・・。


陸景さんですっ!



陸景のウィキリンク


この陸景、呉の名将陸抗の次男です。
演義で見たときは、まさかこんな大物の子孫とは思いませんでしたよ…。


陸氏の分家の分家とかでは?と思っていました。



さあ、演義第120回です。


杜預を迎え撃つため、陸景は孫歆(ソンキン) 、伍延らとともに三手に別れて迎撃します。


陸景は水路から迎え撃ちます。


水軍ならやっぱり陸氏だろ!



という、呉内での評判もあったのでしょう。

確かに、兵の士気は抜きにして、末期呉の水軍だって技術的には全盛期に劣らないものを持っていたかもしれません。



しかし・・・魏の水軍とて侮れません。三国が鼎立してうん十年。赤壁の戦いの頃のような、手探りで水戦をするような魏軍ではありません。


国境沿いで相当訓練をしていたはずです。実戦経験も豊富だろうし。



さて、陸景。


先鋒の孫キンが以外にも健闘、杜預軍を一時的に追いやりましたが、すぐに反撃され、武将周旨に斬り殺されてしまいました。
しかも、城は炎上。。。


それを船上で見ていた陸景、次なる一手は?


抜粋
船上にあった陸景は南岸一帯に狼火が上がり、巴山の上に『晋鎮南大将軍杜預』なる大きな旗印がひるがえったのを見て、同じく仰天し、逃げ延びようと岸に上がったところを、馳せつけた晋の大将張尚に斬られた。


岸に上がってホッとしている隙に斬られたっぽいですね。


最後はあっけなさすぎるなあ…。
陸氏だし、公主を娶っているんだから、もっと頑張って欲しかった。。。



もし、伍延、孫キンとともに三位一体で戦いを挑んでいたら…。
ジェットストリームアタックの一つでも決めていたかもしれないのに…少なくとも周旨、張尚くらいは、あるいは…。


全ては、丞相張悌の作戦が悪かったのか!?


・・・いや、個々の能力、そして、士気でしょうな…。




三国志演義後半の文献はこちらから

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東呉の南斗五車星3人目! 伍延(ゴエン) 末期呉を彩ったモブ特集weekです!

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どうも!


諸葛菜です!


五車星シリーズも3人目!お陰様で大人気ですよ。

なんせ、みんなデキる子ばかりですからっ!


姜維や司馬師なんかの記事よりもえらく評判がいいって、巷じゃ大賑わい。



たぶん。。。。。



伍延様です!


演義第120回。


晋の杜預の大軍が呉へ向かったっ!

孫皓は急ぎ伍延らに出陣を命じた。


車騎将軍伍延は都督となって江陵へ出陣っ!

杜預と真っ向勝負です。


伍延・陸景・孫歆(ソンキン が3手になって迎え撃ちますが・・・


孫キンが周旨に討たれ、陸景も逃げ出したところを張尚に討たれました。


当然味方は総崩れ。


都督の伍延はどうしようかと言いますと、


当然、退却です。


味方が総崩れとなっています。呉の兵士も武将も、孫権・孫策時代のような熱はありません。いや、孫峻・孫ちん時代と比べても、この頃は士気爆減中。


コーエーの三国志で言うと、兵糧がなくて一日ごとに士気が10減っていく状態でしょうな。



やる気なしです。


城を棄てて逃げるところを晋軍に捕獲されました。
杜預の前に引き据えられる伍延。


運命やいかに…



抜粋
「生かしておいても用はない」(杜預談)


都督伍延斬首。


かくて江陵は晋軍に奪われました。


ウィキを見てみると、伍延は偽りに投降して、杜預軍を撹乱しようとしたそうです。




~~~~~~~~~~~~


「参った。降参だ」


都督伍延が投降。まさかの吉報に晋軍は沸き返った。


周旨、張尚が伍延を荒縄で縛り上げる。


張尚「ひひひ。随分鍛えてあるんだな。一般人なら骨折もんだぜ」


都督伍延はうなだれて、涙をこぼしている。

が、杜預は冷ややかに伍延を見下ろしている。


おもむろに、背中に背負っていた連弩を手に取り、伍延に向かって照準を合わせた。


連弩。20年ほど前、蜀を制圧した際手に入れた、速射が可能な弩である。
弓馬の下手な杜預でも扱えるよう、小さなクロスボウ式連弩に改造してある。


「ちょっ…それ…モノホンですかい?」


傍らに控えている張尚は背筋が冷たくなった。


「このタヌキがっ!」


連弩発射。
2本の高速の矢が、伍延の心臓部に突き刺さる。


「こういう時、呉人って便利ですよね。最悪、死んだところで罪には問われない…」


干し肉を頬張りながら、周旨が落ち着いた声でつぶやく。

伍延は仰向けになり、微動だにしない。


「いつまでも、芝居ぶっこいてんじゃねえぞっ!こらあっ!」


杜預が大声を張り上げた瞬間、伍延がスッくと立ち上がった。


「ちっ・・・やっぱり防弾かよ…」


杜預が苦笑いした瞬間、伍延は縄を筋力だけでぶち破った。


瞬く間に、蹴りで張尚のアキレス腱を断ち切り、続いて拳で周旨の顔面をえぐった。
凶器は未使用。すべて素手だ。


「参った。降参だ」


杜預、土下座。


「降参する気などさらさらないくせに・・・」



「スピード、パワー、人格、智謀…どれをとっても君には勝てない」



杜預は更に、頭を擦りつけて詫びた。


「仲間がやられたってのに・・・仇を討とうとする気もなし・・・か?」


杜預、失禁。


「ちっ!貴様のような人間が、大晋の総大将とはな・・・」


呆れた口調で吐き捨てる伍延、こんな軍勢に今まで手こずっていたのか。真に悩ましい。

杜預にトドメを刺そうと近づく伍延。その時、王濬の剛弓から放たれた矢が、伍延のこめかみを貫いた。


杜預、再失禁。


「て、敵将伍延討ち取ったり~~!」



バキ シコルスキーVS猪狩完至 参照



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