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映画『曹操暗殺』玉木宏が暗殺役に!穆順を演じます!

どうもっ!


諸葛菜です!



最近、三国志演義後半のネタが大分少なくなってきたので、何か書くことは無いかと考えております。
まあ、賈充や司馬炎など有名な人物が残っていますが、キーボードが止まってしまいます。やはり、私には地味な出落ち武将を掘り起こす方が向いているのかもしれません。



そんなこともあり、「ネタはねえが~?」と久々にグーグルニュースで三国志ネタを探していました。

どれもこれもゲームネタばかり。検索の3ページあたりに10日前のホットな記事を発見。


玉木宏が穆順を演じて、曹操暗殺を企むというお話です。


この映画のタイトルを見ると、始皇帝暗殺を思い出してしまいますね(監督はチェン・カイコー)。
始皇帝暗殺は面白い映画で、中国大陸の映画らしさがあまりなく「日本人(外国人)受けを狙ったのかな」と思われるほどの流れでした。


以下、記事抜粋




俳優の玉木宏が、中国映画『曹操暗殺 三国志外伝』で中国が誇る世界的スター、チョウ・ユンファと共演していることが明らかになった。同作が自身初の海外映画出演となる玉木が演じるのは「三国志」で知られる魏の武将・曹操の命を狙う暗殺者・穆順。宦官となって曹操に近づくという重要な役回りだ。

 本作は、赤壁の戦いから8年後を舞台に、魏の武将・曹操の暗殺計画を描いた歴史劇。『男たちの挽歌』や『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』などのチョウ・ユンファが曹操を演じることで大きな話題になった作品だ。


 チョウ自身、「三国志」を題材にした作品ではかつてコンビを組んでいたジョン・ウーが監督した『レッドクリフ』シリーズに、周瑜役での出演が決まっていたが、撮影直前に降板。本作は、実に5年越しの「三国志」ものへの出演だ。


 ほかにも、中国で人気のある若手トップ女優のリウ・イーフェイ、台湾のアレック・スー、伊能静といった知る人ぞ知る豪華キャストが集結。三谷幸喜作品で知られる種田陽平が美術を手掛け、ハリウッドでも活動している作曲家の梅林茂が音楽を担当するなど、スタッフにも腕利きがそろっている。(編集部・福田麗)


映画『曹操暗殺 三国志外伝』は2014年3月22日よりヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開



http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/cinematoday_N0058753

「『レッド・クリフ』に周瑜役として出演するはずだったのに」とのことで、チョウ・ユンファとジョン・ウーとの間がちょっときな臭く感じましたので、二人の間に軋轢があったのか簡単に検索してみました。


表向き、ジョン・ウーは、「チョウ・ユンファと三国志の夢を実現したかった」と言っていたようですが、中国流の仕事運びで、香港スターをずいぶん苛つかせていたようです。



ギャラの安さ。
チョウ・ユンファはハリウッドでも活躍しているスターですから、「大陸映画」のギャラでは満足できなかったのでしょう。


また、制作側のスケジュール管理が下手で、シナリオやスケジュール表が、役者に通知されるのが遅く、役者たちは立腹していたようです。

トニー・レオン、アンディ・ラウからも断れているため、やはり大陸の仕事のやり方にも問題があったのかもしれません。




さて、


話がそれましたが、玉木宏の穆順。

穆順が暗殺に挑むということで、すぐに思い出したのが虎牢関の戦い。


反董卓連合軍を諸大名が立ち上げ、虎牢関まで連合軍が迫った時、呂布が立ちはだかりました。
呂布に一騎打ちを挑み、一撃で瞬殺されたのが太守張楊の配下穆順。


武安国ほどのインパクトも残すこともなく、戦場の露と消えた漢穆順。

しかも、この穆順、あとで知ったのですが架空武将だったというおまけ付き。


曹操が中華を賑わす頃にはすでにお亡くなりになっているし、仮に生きていたとしても腕っ節がダメなので、コーエーの三国志ゲームでも武力80以上ある曹操を殺すのは無理!


「おいおい、実在しない人物を玉木宏が演じるのかい?」



と、愚かな私は思ってしまいました^^;



呂布に突き殺される寸前のシーン!

でも、この穆順ではなくて、実在した宦官の穆順だったのですね。



後漢の朝廷に仕える宦官。『演義』第66回に登場。献帝の皇后である伏皇后から、宦官の中で唯一忠義の心を持つ者と評される。皇后からその父伏完への書簡の受け渡し役を任され、髪の中にそれを隠して伏完の下に向かう。しかし、伏完の返書を髪に隠して戻る途中、密告を受けて待ち構えていた曹操に咎められ、厳しい探索の末に書簡を発見されてしまう。穆順は拷問を受けても誰から命じられたかを白状しなかったが、結局、伏完や伏皇后も曹操に逮捕され、伏完・穆順は一族もろとも市中で処刑されている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E9%A0%86


宦官なのに漢王朝に対して忠義を貫いており、三国末期の魏朝廷のモブ文官どもよりも肝が座っています。

宦官が主人公なので主人公とヒロインのお色気シーンはなさそうですね。
玉木宏は中国語で演じるのでしょうか?

曹操が好きな人、三国志前半ファンの方は必見です!



三国志演義後半の文献はこちらから

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諸葛瞻 蜀のリーサルウェポン出撃!綿竹関にて鄧艾を防ぐ!

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どうも!

諸葛菜です!


諸葛孔明の忘れ形見、諸葛瞻様の登場だあ!



諸葛瞻(227年-263年)
諸葛瞻のウィキリンク

父:諸葛亮


演義第117回。


鄧艾・鐘会 軍が南斗の都、成都へ迫るっ!


江油城も陥落。蜀の勝利を予言した巫女さんもばっくれ、劉禅・黄皓も涙目状態。

郤正先生が南の最終兵器、諸葛瞻を招いて鄧艾に当たるようが発言しました。


「事ここに至っては、もはや一刻の猶予も許されませぬ。武侯の子を召して敵を退ける策をおはかりあるがよろしかろうと存知まする」



姜維 の北伐による国家の疲弊を防ぐべく、董蕨らと共に閻宇を姜維の代わりにしようとしたが失敗。
また、黄皓による朝廷の腐敗に嫌気の差した諸葛瞻は、病と言い立てて館に引きこもっていた。



郤正の手の者が諸葛瞻の下へ向かう。


「劉禅様よりのご連絡は?」


「ああ、もらったぜえ」


「諸葛瞻様、鄧艾軍の進軍を阻めるのは雲の諸葛瞻様だけでございます。何卒、なにとぞ、劉禅様の願いを!」


「俺は誰の命令にもしたがわねえ。俺は喰いたいときに食い、飲みたいときに飲むっ!」


「諸葛瞻様・・・っ!」


「おれはあの雲のように自由に生きるのよ・・・」




鄧艾は、劉禅が諸葛瞻を召しだして、行く手を阻もうとする由を密偵から聞いていた。


「何っ?諸葛瞻と!?」


諸葛瞻の名を聞いた鄧艾は驚いた。
まさかあの魂を棄てた男が戦場に来るとは思わなかったのだ。


「もし、その男がわしの知っている諸葛瞻であれば・・・その男は動かん!行くぞ!南斗の都、成都へ!」


(雲の諸葛瞻はすでに世を棄てた男よ・・・)



母親の黄氏は奇才あり。
諸葛瞻に遺した言葉は忠孝の二文字だけでありました。


黄氏についてはこちらの記事でw。


孔明のヨメ


劉禅は3通も詔を出して、諸葛瞻を招きよせ、泣き泣き訴えた。先帝陛下の恩義を思って、朕の命を救ってくれ・・・と。


諸葛瞻も涙ながらに、

「臣ら親子は先帝陛下のご恩顧に預かり、陛下のご処遇をかたじけのうしたもの。肝脳を地にまみらすとも、このご恩の万分の一もお返しできませぬ。なにとぞ成都の軍勢をあげて、臣が決死のいくさにゆくことをお許しいただきとう存じまする」



諸葛瞻の館に孔明旧来の兵士の子らが殺到!


「話は聞いたぜェ!いよいよ戦が始まるんだってなあ!」


「俺たちも混ぜてくれよお!腕がなまっちまってよお!」


「雲の諸葛瞻様に付き合うぜ!」



「バカヤロウどもが・・・おめえらっ!相手を誰だと思っていやがるんだ!鄧艾だぜ!今や飛ぶ鳥を落とす勢いの世紀末覇者の鄧艾だあ!死ぬぜ…!必ず…」


「へへへ・・・喧嘩なら相手がでっかい方がおもしろいぜえ!」


「諸葛瞻様がダメだって言ったって勝手についていくぜ!」



「手前ら…揃いも揃ってバカばっかりだぜ…行き先は地獄だぜっ!」


「でも、天国の方が面白そうですがね・・・」


「よ~し!おめえらっ!ついて来たい奴はみんな来やがれ~~!!」



かくて7万の軍勢を授かり、先鋒を息子諸葛尚に命じて、鄧艾軍の先鋒師纂・鄧忠と戦いました。

初戦は孔明の木像を使って敵をかく乱、大勝を収めました。


二回目の戦いも諸葛尚の奮戦により、師纂・鄧忠を寄せ付けませんでした。


このとき天水の太守王頎(オウキ)、隴西の太守牽弘なども数万の軍勢を率いて到着していました。

数で勝る鄧艾も諸葛瞻の強さに舌を巻き、降服勧告の使者を出します。


諸葛瞻は降服勧告書を見るや血相を変え、書面を粉々に引きちぎり、使者を打ち首としました。



鄧艾軍は力攻めをせず、諸葛瞻らをおびき出し、伏兵で叩く作戦を実行。

蜀兵が散々に打ち崩されて、綿竹関に立て籠もります。


魏軍は鉄桶の如く、綿竹関を取り囲む。


かくてはならじ。


と、諸葛瞻は彭和 に書面を授け、呉の孫休に救援を求めさせました。


ここでの攻防戦はあまりかかれていませんが、鄧艾軍も相当な力攻めをしたことでしょう。



・~・~・~・~・~


綿竹関に立て籠もることになった諸葛瞻軍。


諸葛孔明の息子として、戦の戦術は徹底的に学んできた。


ただ、実戦での経験不足は、鄧艾という強敵と戦っているとおのずと明らかになってくる。


城壁の上に出て、自ら巡回する。


父が残した「連弩」が綿竹関の城壁の端に鎮座ましましていた。


鄧艾軍相手に矢の数は足らないかもしれないが、未だ使用したことのない連弩を使ってみる時ではないのか。


連弩の使用法、作成法は諸葛孔明が弟子の姜維に授けており、諸葛瞻の手元にはなかった。


その時、郤正の使者が一通の書簡を持ってやってきた。その書簡こそ、姜維が諸葛瞻に渡すために郤正に預けた連弩の書であった。


大急ぎでその書を広げてみる。


「すご…い…!普通の弩の10倍以上のエネルギーゲインがある…!」


折りしも、牽弘軍3万が押し寄せてくるとの知らせが入った。城壁にある連弩の包みを外し、牽弘軍へと照準を合わせるよう指示する諸葛瞻。


指揮を息子の諸葛尚に任せ、諸葛瞻自らも連弩操作を行う。


「こいつ…動くぞ!」


土煙を上げて牽弘の大軍が綿竹関へ向けてやってくる。
照準、装填。

ぎりぎりまで引き付けて、発射準備をする諸葛瞻が叫んだ。


「撃つぞ… 撃つぞ… 撃つぞォォォォォ!」



発射。



10本の矢が牽弘軍の重装騎兵をぶち抜く。
騎兵の身体を貫いた矢が馬をも貫く、一本の矢で2,3人の兵を殺傷させる威力に諸葛瞻はしびれた。


「すごい…親父が熱中するわけだ…」


牽弘軍に多数の死傷者を出したが、連弩の矢は尽きた。



・~・~・~・~・~



援軍を待っていてもいっこうにこない。


「いつまでも立て籠もっているのは良策とはいえぬ」


諸葛瞻は息子と張遵・黄崇・李球らを城の守備に留め、自身は鎧をつけ馬にまたがるや城門を押し開いて出陣。


鄧艾軍を力押しに押しましたが、伏勢に遭い、矢を浴びせられ蜀軍壊乱。


諸葛瞻も身体に矢を受け落馬しました。


「もはや力尽きた。このうえは一死を持って国に報いるばかりだ」


と呼ばわるなり、剣を引き抜きみずから首かき切って死んでしまいました。





諸葛瞻の最後、あまりにもあっけなさ過ぎました。


捨て鉢になって大軍に突進、自刃は創作なのかなと思いしました。特に兵糧にも困っていなさそうだったので、綿竹関にずっと立て籠もっていれば、呉の援軍はともかく、蜀の増援部隊もあったかもしれないのに。


息子以上に短気な気がしました。


ウィキにあるように、江油城に到着する前に鄧艾軍と戦っていれば追い返すことが出来たかもしれないのに、惜しかったです。


黄崇(黄権の息子) の言うとおりにしていれば…。


惜しい…。


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諸葛瞻無念と思ったら


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諸葛瞻様の紀念墓 



どうもっ!


諸葛菜ですっ!


三国志演義では、蜀の最後を飾るために、傅僉が斬死したり、架空武将の蘆遜が命を散らしたり、滅亡寸前にやや小粒の武将が大立ち回りを演じました。


姜維も命を散らしましたが、評価がイマイチということで、やや晩節を汚してしまった部分もあったかもしれません。




さて、

その中でもビッグなキャラが諸葛孔明の息子諸葛瞻です。



227年 諸葛瞻誕生
234年 諸葛亮が出兵。この時、諸葛亮は兄の諸葛瑾に手紙を書いており、その中で「諸葛瞻はすでに8歳になり頭がよく可愛いのですが、ただ少し早熟なだけで将来は大器にはならないでありましょう」諸葛亮が死に、諸葛瞻が官爵を継いだ。

243年 諸葛瞻17歳の時に蜀皇帝劉禅の娘を妻とした。


諸葛瞻の活躍は以前書いたとおりです。
wikiにもサクッと載っていますのでご参考くださいませ。


諸葛瞻 蜀のリーサルウェポン出撃!綿竹関にて鄧艾を防ぐ!


諸葛瞻のお墓は綿竹にあります。
四川省の重要な蜀漢の遺跡の一つ。
成都の武侯祠と少し違いが有り、諸葛一門の三代の忠義を称えるために建てられたもの。
成都の武侯祠には諸葛亮三代(諸葛亮、諸葛瞻と諸葛尚)が一堂に会した像があり、綿竹には双忠祠にも三代の蔵があり、前の殿には諸葛瞻父子、啓聖殿には諸葛亮が祀られています。






成都、綿竹の二箇所の祠には身を低くして、粉骨砕身し国に身を捧げた諸葛亮三代を祀っています。
現存している双忠祠は清朝乾隆帝の時代に建造され、その後も20年毎に補修を行い、拡張工事も行われました。




演義では、諸葛瞻が幼いころに父孔明から、「大器にはならない」と言われていませんでした。
wikiを見て初めてしりましたよ^^;

かたや、諸葛瑾の息子の諸葛恪 は、演義でも父親から「家を全うできるものではない」とか、陸遜 からも「夜郎自大だ」などとブチブチ言われていましたね。


諸葛瞻の思いもよらない笑いを誘う駄目エピソードでもあれば、もっと好きになれそうですw



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謹賀新年!三国志ブログをよろしくっ!

どうもっ!


諸葛菜です!


あけましておめでとうございます!
今年もこのブログが年を越すことが出来ましたね!!


引き続き三国志演義、三国志の地味キャラ、知名度の低いキャラを発掘、紹介していきます。


本年もどうぞよろしくお願いいたします!



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三国志後半武将人物名鑑  

王濬 part.1 三国志演義の締めを飾った孫皓を降伏させた将軍


どうもっ!



諸葛菜ですっ!


三国志末期のスター選手、王濬をまだ書いてませんでした^^;




王濬は船団を率いて、呉の丞相張悌 以下武将たちを蹴散らし、呉を降伏させたのは演義でも書かれています。



呉末期の五車星?( ´,_ゝ`)

孫歆(ソンキン) 陸景 伍延(ゴエン) 陶濬(トウシュン)  張象



孫皓の懐刀の宦官岑昏様が献策した、「川に大量の鉄の杭をびっしりと敷き詰めて、晋の船団を粉々にする」作戦を松明の火でドロドロに溶かしたという…優秀な将軍様王濬。


「松明の火で溶けちゃう鉄ってどーなのよっ!?」


と、ツッコミを入れたくなりますね^^;


そんな王濬ですがウィキにもしっかり書いてあります。


王濬は80歳まで長生きしたご長寿将軍。206年ー286年まで生きました。
二千石の官吏の家に生まれ、容姿に優れて博学だったのですが、とりわけ目立とうとはしませんでした。


その後、大志を抱き切磋琢磨したようで、徐バクさんの娘をもらい結婚。河東での任務につき、272年には広漢太守に任命され、羊コより推薦を受けて、益州太守となりました。




大志を抱いた彼は非常にワイルド!

大志を抱いた王濬は早速行動に出たっ!

手始めに自分の家を修築し、玄関の前に幅が数十歩もあるだだっ広い道を切り拓きました。

「こんな広い道作ってどーすんだ?」


と近所の人に聞かれ、


「俺はこの道いっぱいに儀仗兵たちを並ばせてやるんだっ!」


と王濬は答えました。


近所の人達は笑いましたが、王濬は、


「陳勝が言っていた。燕雀が大きな鳥の志を知ることが出来るか」


と一蹴。


今風に言うと、「海賊王に俺はなるっ!」とほぼ同義語でしょうか^^;(笑)。


徐バクの娘ゲット!

徐バクさんの娘と結婚したのも、王濬の男気に惹かれたから。
河東従事となった王濬の厳正な仕事ぶりに徐バクが惚れ、娘も王濬を起きに召したため、結婚と相成りました。


女が男を選んだというケースは珍しいですが、三国時代では割りとみかけますねw


羊コも彼の人柄を見抜き、自身の参軍事とさせました。


益州での仕事振り
王濬はその後、巴郡大守となりました。
巴郡は呉と国境を接しており、小競り合いが頻繁に起こったため、当地の男子たちは兵役に苦しんでおり、女性たちは男子を出産しても、育てようとせず棄ててしまいました。


王濬は法規を厳しく見直し、徭役を軽減させ、税を軽くしました。

このため、この群の子どもたち数千人が無事成年まで育てられたと言われています。


272年、広漢太守となった王濬は民衆から頼られる存在となっていた。

ある時3つの刀が家の梁の部分に刺さっていた夢を見ました。しばらくすると、また一本刀が増えました。目覚めた王濬は気味が悪く思っていましたが、主簿の李毅が、


「三本の刀は州の字を指しまする。更に一本増えたということは、益州の刺史になれることを表しておりまする!」


と、祝賀モードに。


しばらくして、盗賊の張弘というものが、益州刺史の皇甫晏を殺したため王濬が益州刺史に命じられました。


王濬は張弘を打ち倒し、子分たちも皆殺しに。
益州全体に広く善政を敷き、百姓たちから篤く信頼されるされました。


三本の刀の夢は王濬にとっては吉兆でしたが、皇甫晏さんにとっては死亡フラグだったんですね^^;。吉兆グラフも三国志には登場しますが、それも誰かの犠牲の上に成り立っているものが多いので、要チェックです。


にしても、益州刺史の座を間接的に与えることになった盗賊の張弘さん、お疲れ様でした^^;



この後、船団を作ったり、呉を滅ぼしたりと大忙し。長くなったので、それは次回でっ!( ゚д゚)




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三国志のLINEスタンプが出たようです。


どうもっ!

諸葛菜ですっ!


私はスマホを持っていないのでLINEなどは一切やっていないのですが、三国志ネタを探してみるとLINE絡みでありましたね。

横山光輝御大のキャラクターをLINEのスタンプ。

まあ、下記の画像を見る限り、マニアのツボを心得た選抜となっておりますね。




ソニー・デジタルエンタテインメント・サービスは、LINEのスタンプショップにて、漫画「三国志」のスタンプの配信を開始した。価格は1セット(40個)で200円、または100LINEコイン。

 今回配信されるのは、横山光輝による歴史漫画「三国志」のスタンプ。「孔明の罠」「げぇっ」「むむむ」「ジャーンジャーンジャーン」など特徴的な表現やシーンがスタンプになっている。原作60巻の全1万2419ページから1年以上をかけて厳選されたとのことで、マニアも納得の決定版としている。

 漫画「三国志」は1971~1986年にかけて連載された作品で、全国の図書館にも置かれた。全60巻で発行部数7000万部以上にもおよぶ。

http://k-tai.impress.co.jp/docs/news/20140116_631009.html


全国の図書館にも置かれていたんですね!御大!
地元の図書館には置いていなかったけれど、確か中学の図書館に置いてありました。


このスタンプのチョイスを見てみると、横山光輝三国志のおもしろいシーン(ネットで面白いと取り上げているもの)をソニーがチョイス、またはyoutubeに載っているおもしろ動画から引っ張ってきたような気がしないでもない^^;


三国志って本当にいつの時代も人気を誇り、強いですな~!

この時ばかりは、中国の歴史は大したものだと感心します。



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王濬 part.2 水軍を鍛え、南下して呉を滅ぼす!


どうもっ!

諸葛菜ですっ!


王濬の戦での活躍ぶりを書いていきます。


王濬 part.1 三国志演義の締めを飾った孫皓を降伏させた将軍

水軍を訓練
晋の武帝司馬炎が呉討伐を命じ、王濬は直ちに巨大な船を建造し、2000人あまりが搭乗できる大型船でした。大型船の周囲は木柵でかため、船上は馬が往来できるほど広かったそうです。



王濬は蜀の地で軍船を造り、砕かれた木片が川面を覆ったと言われています。呉の建平太守吾彦は大量の木片が流れてくるのを発見し、「晋が呉を撃ちにかかるのは必定。直ちに兵士を集めて防戦に供えるべし」と進言しましたが、孫皓は聴きませんでした。


当時、晋の朝廷内では呉討伐に関する議論が活発に行われておりま、王濬も皇帝に上疏しました。



「臣が呉の状況を確認したところ、孫皓は荒淫暴虐、荊州、揚州一帯の人間は賢者も愚者も問わず、これを恨まぬ者はいません。現状を鑑みるに、すぐに呉を打つべきです。今日、打たねば形勢は予期せぬ方向に向かいかねません。もし、孫皓が急死して、名君が立ってしまったら呉は我々にとって強敵となるでしょう。また、船を建造してからすでに7年が過ぎております。船は日に日に腐ってしまいますし、私もすでに70歳で死期が近づいております。この3つは人の力によるものではありませんので、急いで呉を討たねば、最高の機会を失ってしまうでしょう」



司馬炎は表向き王濬の意見に同意していましたが、賈充ら側近が呉討伐に大反対をしておりました。


張華のみが司馬炎に呉を撃つよう進言し、杜預も荊州から呉を撃つべきだとの上疏があったので、司馬炎はついに討伐を決意しました。


呉の討伐

王濬は蜀の軍勢を率いて出陣。巴郡の男子はすでに兵役に服せる年齢になっていました。兵士の親たちは従軍する息子たちにむかって「王濬様がお前たちに命を与えたのだ。一生懸命忠義を尽くし、無駄死はするな」と激励を飛ばしたそうです。


280年、王濬は水陸の塀を率いて成都から川を下って呉に迫りました。



三国志演義では孫皓の懐刀wである岑昏が川に鉄の杭を張り巡らせて、船ごと破壊しようと画策しましたが、王濬はこれを見抜いて先に大きな筏をたくさん先行させ、このトラップを発動させた後、進軍しました。

残った鉄の杭は松明の火で焼却っ!


後は、こちらにも書いたとおり、強風になびかれた柳のごとく、呉の軍勢は次々と降伏。


孫歆(ソンキン) 陸景 伍延(ゴエン)

陶濬(トウシュン) 張象


孫皓が喪服を着て体を縛り、棺桶を持って投降。


王濬は孫皓の拘束を時、棺桶を燃やし、孫皓を洛陽に送還させました。王濬は呉の書庫を抑え、府を固く封じました。王濬軍は私利私欲に走らず、略奪はなかったようです。


普の武帝司馬炎からも重い恩賞を賜りました。



ここまでは王濬絶好調ですね!


が、中国の功臣が、国が安定し始めた時に言いがかりをつけられたり、粛清されたりと様々な受難が…というのは、もはや常識(;_;)…。王濬はこのまま安楽に暮らせたのでしょうか…。



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中国出張に行って来ましたけどPM2.5がすごすぎ!


どうもっ!


諸葛菜です!



中国出張に行ってまいりましたが、いやはや空気が灰色でびっくりしましたよ。

取引先の中国人スタッフと三国志について雑談を仕掛けましたが、話題は全然盛り上がらず。


三国志の話題なんてどーでもいいじゃない!とも言いたげでした。


・諸葛亮がどうたら、関羽は商売の神様です。
・曹操は悪者。

・最近は三国志のゲームが中国でも人気ですよ。



と、薄い内容の話しか出ませんでした。

姜維の人気ぶりやトウ艾、鐘会なんて名前だけ知っていても全然興味なしでした。

傅僉 の男気や于詮 閣下の生き様についてのうんちくを知りたかったのですがwそんな地味武将なんて知らんだろうな…。

ていうか、仕事が忙しくてそれどころじゃあありませんでした。


さて、中国のPM2.5ですが、これは本当にヤバイですね。
8歳の男の子が肺がんで亡くなったり、深刻です。


取引先の中国人女性も、食事中、


「私、実は2ヶ月前に流産したんですよ。妊娠二ヶ月だったんですけど、子供が全然成長しなくて。医者からも『こんな空気の汚いところじゃきちんと育たないだろうから、流産したほうがいいよ』と言われましたのでおろしました」


とのこと。



あっけらかんにさらっと言ってしまうことと、唐突に空気も読まずに発現するあたりがまあ・・・魔大国人らしいといえばらしいのですが・・・。


それだけ中国のPM2.5はヤバイです。

日本の30~50培の濃度ですからね。長期間中国に滞在すると、間違いなく致死量の空気を吸い込むことになります。


すぐに分かるPM2.5臭。

中国の町では常に生活臭が漂っていて、そのにおいは独特。この通りでは残飯臭、あの角は排便臭、この通りでは廃油の臭いと、待ちを歩いていても様々な異臭がごちゃまぜになっているのが中国の町でした。



しかし、今回出張した時はかなり違いました。
臭いことは臭いのですが、そのにおいは煤煙の臭いを思わせる工業、化学臭。
町のどこを歩いても同じ臭いしかしないのでびっくりしましたね…。


中国におでかけの際は、是非、マスクを携帯して下さい。
そーいや、こんな酷い環境にも関わらず、中国人たちほとんどマスクつけていなかったなあ…。



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王濬 part.3 大功は立てた!けど、王渾から嫌がらせを受けて…

どうもっ!


諸葛菜ですっ!


王濬もいよいよ大詰め…っ!と、言っても、晩年のあまり面白くない話をちょこっと書くだけですが^^;


王濬 part.1 三国志演義の締めを飾った孫皓を降伏させた将軍


王濬 part.2 水軍を鍛え、南下して呉を滅ぼす!


上書して自己弁護する


晋の武帝は王濬に建平を攻めさせた後、杜預を派遣し、秣陵には王渾を遣わした。
杜預が江陵に到着後諸将に対して「もし王濬が建平へ攻め下ったら、我々の制約を受けずに進んでもらう」と説明した。


王濬が西陵に到着し、杜預は彼に手紙をしたためた。

そこには呉の西部を打ち砕き、秣陵も手中に収めた功績を称えており、呉の討伐を鼓舞する内容がしたためられていた。



王濬は秣陵に到着した時、王渾は王濬にしばらく軍をとどまらせるよう使者を送った。

王濬はそれに対し「風が強く、船をとどまらせることはできない」王渾はすでに張悌を斬り、呉の中軍を打ち破っていたが、更に軍を進めるにはためらいがちだった。



しかし、王濬はすでに孫皓を降伏させ、王渾は恥ずかしさと怒りを感ぜずにはおられず、朝廷に対して王濬が命令に背いたことを上書した。まあ、誣告ですな…。



朝廷での評議の結果、王濬を護送車に入れて都へ送還させることとした。武帝司馬炎は王濬に指さして詰った。


「呉の討伐は、軍令通りに進めなければならない。王渾が軍を留めるよう軍師を使わせたのに、どうして軍を進め、王渾の命令に背いたのかっ!」


王濬は弁護するために上書をしたが、王渾は武帝に対して、「王濬は呉の宝物を漁った」などと上書し、これに対しても王濬は女子て反論した。




王濬の晩年


王濬が都に戻ってから、王濬は不敬罪に問われた。


その不敬罪はやがて許され、輔国将軍となり兵を率いることができた。

襄陽侯となり、食邑1万戸、息子の王イが楊郷亭侯となり、食邑1500戸を賜り、絹、銭を賜った。


王濬は呉帝孫皓を降伏させた大功を成し遂げましたが、命令違反と言い立てて、その功を無き物にしようと奔走した王渾。


いかにもチャイナらしい話ですね。


王濬ってゲームではやや後半に登場する武将ですが武力、知力共に高く、なかなかの強者です。
三国志7で末期呉でプレイしていた時、王濬の水軍にこてんぱんにやられた覚えがあります。


王濬に嫉妬した王渾も、ステータスは高めでした。確か知力が高かったような…。


王渾は三国志演義後半でも登場した「名前だけ武将」でしたが、こちらも調査して記事にしたいですね^^!



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楊儀 魏延と仲の悪かった官僚。後期孔明の片腕



どうもっ!



諸葛菜ですっ!



楊儀と言ったら魏延、魏延と言ったら楊儀。
三国志を語る上で、これはもはや常識っ( ゚д゚)!



・・・


ってほどではないですかね^^;?





楊儀が劉備陣営に着いた流れについては、ウィキペディア 等でご確認下さいませ。



横山光輝三国志の59巻、60巻だけ手元に置いてありますが、楊儀が孔明死後に活躍した姿はこの2冊に凝縮されています。


60巻の始めですぐに自刃してしまいましたが…。




三国志演義や三国志を読んでいると、完全に魏延が悪者で「謀反上等!」「孔明なんか何するものぞ!」と言う気炎を吐きまくっていましたが、魏延の記事でまとめたとおり、彼は謀反をする気はなかったし、楊儀のいうことが聞けない。楊儀が気に食わないから衝突してしまいました。


魏延 孤独で自信過剰で勇猛で忠誠心があった蜀の武将


楊儀は諸葛亮孔明が今際の際、「錦の袋」を貰い、「魏延が謀反した時はこの袋の中身を見ろ」と言われました。



孔明の死の間際、軍中には王平、姜維、魏延がおりましたし、当時としてはちょっぴり小粒でしたが廖化や張翼もおりました。


成都へ退却するまでの臨時的な引き継ぎとはいえ、軍事行動を掌握するわけですから、武将に引き継げばよかったのに、実務処理の腕が良いからと言ってあえて楊儀を選んだのは、孔明の魏延潰しの最後の一手と見えます。


楊儀が臨時的にとは言え、トップとなったら、日頃から仲の悪い魏延がブチ切れるのは火を見るよりも明らか!^^


まあ、魏延を取り除くことで、自分の死後の蜀陣営が安定すると思っていたのでしょうが、一時的に仲間割れするのを完全に読んでおりましたな…孔明閣下。


魏延を狩るために、魏延に内緒で撤兵。
怒った魏延が追撃したところを、馬岱に切らせました。


参照:魏延 part2 孤高の戦士 謀反を起こしたと思われ楊儀たちに殺されてしまった…



楊儀は無事、蜀の軍隊を退却させましたが、その後の恩賞については決して満足のいくものではありませんでした。

蔣エンが孔明の後を引き継ぎ、楊儀は「中軍師」どまり。


長年、諸葛亮に付き従い、苦労してきた楊儀。

半生を費やしたと思うんですよね。

それなのに、「人物的に器が小さいから」とか「孫権には『魏延と楊儀をセット』で小物扱いされたから」という理由で大きな地位につけなかったのでしょう。


部下や同僚に愚痴をこぼしたくなる気持ちはわかりますよね。

楊儀の不満は朝廷の耳に入り、庶民に落とされ、成都から飛ばされてしまいます。



Image may be NSFW.
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イケイケな頃の楊儀様



これを恥じた楊儀は自刃。


楊儀の器量が狭いとはいえ、この扱いはさすがに同情してしまいますよね。


まあ、魏延の首を見て足蹴にしたそうなので、器量もやっぱ狭いよなあ…。

孔明死後の楊儀については、演義や三国志で描写されているまんまでしたな…。



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趙雲が主人公の三国志の物語 ヤフープレミアム会員視聴無料!


どうもっ!


諸葛菜ですっ!


三国志の映画やドラマは数多く生まれましたが、趙雲が主人公の映画はあまりみないですよね?


http://gyao.yahoo.co.jp/player/00837/v09705/v0969400000000539861/?ap_cnt=2


ヤフープレミアムの会員の方であれば、今なら無料試聴できます。
2008年の映画のようですが、私はヤフーのリンクを見て初めて知りました^^;


動ける太っちょ名優サモ・ハン・キンポーも出演。
彼が出演すると映画全体に安定感が生まれます。


劉備の息子劉禅を助けた話はあまりにも有名です。
五虎将軍には趙雲の他に、関羽、張飛、馬超、黄忠がいましたが、この中で最も長命で、最も分別があり、攻守のバランスが取れたキャラでした。それと、一番冷静なのも趙雲ですね。



私の場合、趙雲と聞くと、真っ先に浮かぶのが公孫サンなんですよね…^^;


おそらく、横山光輝三国志と光栄ゲームのシミュレーション三国志の影響でしょうな。
文醜に追いかけられる公孫サンを救ったのは、槍と「旅人の服」を装備した軽装の趙雲。


野球漫画のドカベンに登場した山田太郎と被ったと思ったのは、それがしだけではないはず。


横山光輝三国志の公孫サン陣営は、公孫サンと弟公孫越以外は武将が登場せず、その影響をもろに受けたのが初期の光栄三国志。公孫サン陣営は袁紹に喰われるために存在していました…。

しかし、シナリオ1で数年持ちこたえれば、在野武将として登場するのがこの趙雲です。


武力90台、知力も80台なので、文醜、顔良兄弟に攻めこまれても撃退可です。



ゲームの公孫サン陣営、三国志5以降では配下武将の数も増え、三国志7では趙雲がいなくても、袁紹軍を撃退することも可能ですし、隣の公孫度を屠るのも比較的容易です。



次に印象深いのは、三国志マニアの間では「四国志」と呼ばれた、荊州南部の韓玄、趙範、劉度、金旋の英雄w達が覇を競っていた時代、劉備軍がイナゴのごとく押し寄せた時のこと。


それは、趙雲にフルボッコにされた趙範が、彼と誼を通じようとし、自分の亡兄の妻を勧めたところ、「自分の兄の妻を人に薦めるとは!」と、趙雲は激怒されました。


漫画では、あと一歩で趙雲と仲良く慣れたはずなのに、中古は嫌だという趙雲の好みが垣間見れたシーンでした(違)^^;


上記2点が記憶に深く残っています。
もちろん、劉備たち亡き後、孔明、魏延と一緒に頑張った時期も覚えいますよ。



そんな熱い趙雲の生き様が描かれている映画「三国志」。見たことある人もいるだろうけど、見ていないけど、俺はヤフープレミアム会員だという方はご視聴あれ^^


引退間近の趙雲に災難をふっかけた製作陣!いったいどんな映画なんだ(゚д゚)!



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虞松 出落ちの主簿を書くのを忘れていた~!大局的に情勢を見れる男



どうもっ!


諸葛菜です!


三国志演義後半の出落ち武将、名前だけ武将は全て書ききったと思っていましたが、それはただの慢心でした(゚д゚)!


見落としていましたよっ!


虞松!




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この虞松さん、演義での登場回は第108回。


呉の諸葛恪 が魏に攻め込んだ時の回です。



孫権の死に乗じて、一気に南下してきた魏軍を諸葛恪が撃破。
諸葛恪と言うよりも、現場武将の老将丁奉 の武力と、用兵が上手かったため勝利できたのですが、「これは俺の采配ぶりが良かったからだ」と勘違いした諸葛恪が(よせばいいのに)、さらに北上を試みました。


死亡フラグを打ち立てた蔣延を庶民に下す小話もありましたが、どうにか新城という城を取り囲むまでに至りました。



魏の張特 が篭もる小城ですが、なかなか落とせません。


ここで虞松の登場です!


司馬師の元に虞松が見参!曰く、


「諸葛恪が新城を囲んだとて、しばらく戦わずにおれば、遠来の軍勢ゆえ、兵糧が不足してみずから退くこと疑いござりませぬ。敵が退くところに追い撃ちをかければ大勝は必至。ただ蜀の軍勢の攻め入るのにご用心なされませ」


司馬師 はげにもと頷き、呉の大軍を 毌丘倹(カンキュウケン)胡遵 に防がせ、蜀との国境を守る郭淮 の元へ増援を派遣しました。


この時、諸葛恪はすでに姜維へも書簡を送り、魏を倒そうと促していました。しかも、姜維将軍 はこの手紙を見て小躍りしたくらいですからな。


諸葛恪の手の内を読み、新城の地形、兵糧の量、守備大将の張特の能力も全部把握済み。
かなりしっかりした主簿さんだと感心いたしました!


この虞松さん、陳留の人で、九江太守の外孫だそうです。。


目立たないけど、こういった人物が、魏にはゴロゴロいたんだろうな^^;



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賈充 part.1 三国志演義登場時での初仕事はVS諸葛誕!


どうもっ!


諸葛菜です!


ほんと・・・不定期更新になってしまいましたな…。
ブログ立ち上げ時から1年くらいまでにコメントを頂いたアメブロガーさんたちのブログを見てみると、すでに閉鎖されている方もずいぶんおられました。


不定期更新とはいえ、ブログがあるというのはまだマシなほうなのかな^^;


三国志演義後半のメインキャラというべき、賈充サンを書いておりませんでした。


出演回も多いから、かなり長期戦となるキャラクターだぜ~!





賈充
三国志演義後半での初登場回111回。


司馬懿司馬師 が亡くなり兵馬の権が自分一人に集中してしまった司馬昭。
天子の位を奪ってやろうとの魂胆が見え見えでありました。


そんなイケイケの司馬昭に擦り寄って行ったのが、相府の長吏を勤めていた賈充。


「殿には、今日、天下の大権をおとりになっておられますが、四方の者どものうちには不満を抱く者もござりましょうゆえ、それとなく意向をさぐってみたうえで、ゆるゆる大事を図られるがよろしゅうござりましょう」


司馬昭もこれに激しく同意。


兵士を慰労する目的で、「なら、お前が行け」と、賈充が命じられました。
この頃の賈充にとっては嫌がるどころか、手柄の一つでも立ててやろうかと意気込んでいたんでしょうな。


まず、向かったのが依りにもよって、淮南の諸葛誕のところです。



いきなり大物を訪問。

っていうか、下調べをかなりしていたような気がしますね・・・諸葛誕様 をロックオン!


中央政府からお役人様がいらっしゃったということで、諸葛誕もそれなりに宴会を催し、接待を行いました。

酒が程よく回り始めた頃、賈充が


「この頃、洛陽の賢者たちの間では、お上が惰弱で天子としていただくことはできぬ。司馬大将軍は三代にわたって国家をささえ、その功徳は天をおおうばかりであるゆえ、魏の大統を譲られてしかるべきだとか、論じられておりますが、将軍はこれをどうおかんがえでござりますか」



と探りを入れたところ、



「そなたも魏の碌を代々喰んでおきながら、よくもそのようなことをぬけぬけと言えたものだ」


「いや、それがしは人の申して折ることをお伝えしただけでござりまする(:.;゚;Д;゚;.:)」


「天子にもしものことがっあら、一命を投げ打ってでもご奉公するつもりじゃっ!」



諸葛誕相手にこんな口を聞いて、生きて帰れただけでも感謝しなくちゃ。
諸葛誕の取り巻きに、若かりし頃の横山三国志の張飛みたいな奴がいたら、少なくとも木に縛り付けられて、ムチ打ちの刑に遭っていましたよ!




ムチ・・・つーか、木?!
更に、鉄輪でお下げを木にくくりつける手の込みよう。



賈充、「これは俺の友達の友達が言っていたんだけどさあ~!」と、曹髦様の悪口を言ってみたものの、逆に脅かされて帰ってくるという体たらく。


が、司馬昭 にとってはよい取材であったらしく、賈充はすぐに有る事無い事をチクりまくる!


「ううむ!小癪な!」


いとも簡単に煽られる司馬昭!

まあ、司馬昭にとっても、諸葛誕クラスが兵馬の権を前線で握っているとなると気も気でないでしょう。


賈充が、


「諸葛誕は淮南の人心を深く掴んでおりますゆえ、捨ておかば必ず禍いとなりましょう。すみやかに始末されるがよろしゅうござります」


と言っても、お前、どうせ前線来ないんだろ?


此後、数に物言わせて司馬昭が諸葛誕&呉連合軍 をぶっ潰すんですよね。


口先一つで天下の大軍を動かした賈充、恐るべし(゚д゚)!!




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賈充 part.2 曹髦、成済、成倅を一気に平らげる!



どうもっ!


諸葛菜です!


賈充 part.1 三国志演義登場時での初仕事はVS諸葛誕!





賈充シリーズ、一気に行くぜ!

胸糞の悪い奴で、李儒を思わせる程の悪行超人だけど、三国志演義後半の没個性キャ

ラがひしめく中、スパイスの効いたキャラなのでないがしろにはできませんw


次の活躍の舞台は三国志演義第114回です。



蜀の姜維率いる軍勢が度々魏の国境を犯しましたが、叩き上げの努力家将軍トウ艾により、見事に撃退していました。


姜維の暴走、蜀宮廷の腐敗に目をつけた司馬昭は、「時すでに至れり」
と、思いそろそろ職を討とうと賈充に話を持ちかけました。


「今はその時ではござりませぬ。天子は当今、殿を疑っております。先年、二匹の黄龍が寧陵の井戸に現れましたので、群臣が瑞兆なりとして祝いを述べたところ、天子は、『瑞兆ではなない。竜は天子を表すもの。それが上は天にあらず、下は田地にもおらずに、井戸の中に居るとは、幽囚の兆しである』と言い、『潜竜の詩』一首を作りましたが、その詩の心は、明らかに殿を指したもので、こういう詩でござります」



傷ましきかな 竜 困しみを受け
深淵に躍ることあたわず
上は天漢に飛ばず
下は田に現れず
井底に蟠踞し
鰍鱔(しゅうせん どじょうや鰻)その前に舞う
牙を隠し爪甲を伏す
ああ 我もまた同然



これを聞いた司馬昭はもちろん激怒するのですが、曹髦のwikiを見ると、潜竜の詩は現存しないようです。


『潜龍』の詩は現存しない。『三国志演義』では、『潜龍』で司馬昭一党を鰍や鱔に準え、そのことを知った司馬昭に面前で侮辱されるが、実際の詩である根拠は無い。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E9%AB%A6



なあ~んだ、羅貫中御大のいつもの盛りか!



何らかの詩を詠んだのでしょうけれど、こんな詩の内容ではなく、おそらく賈充が盛ったんでしょうな。


曹髦が何かを企むのは必至なので、早いうちに手を打てと司馬昭を煽る賈充。



潜竜の詩の一件を持ち上げて、司馬昭は直接曹髦に詰め寄りました。

曹髦はこれに肝を冷やしましたが、返って彼のファイティングスピリットを掻き立てることになり 、王経ら忠臣に助力を乞い、司馬昭討伐の軍を挙げます。


賈充は、得たりとばかりに軍勢を率いて曹髦の前に立ちはだかります。
両脇には武闘派と思われる側近、成済、成倅兄弟を連れていました。


曹髦は、「朕は天子であるぞ!」と、叫び、一同怯んだのですが、


賈充「司馬公がお前を養っておられたは、何のためか?今日のためなのだぞ!」


成「殺しますか、捕らえますか?」


賈充「殺せ。司馬公の命令じゃ」


部下に皇帝を殺させ、やはり皇帝をいきなりサックリやっちまったのは、司馬昭も誤算だったのでしょう。


焦伯も殺されたし。



司馬昭、迫真の演技で仰天した振りをし、号泣。




ちっ・・・下手な芝居をうちおって…。


陳泰からは、「少なくとも賈充を殺さなければ天下に示しがつかない」と、言われますが、「もう少し穏やかな方法で」というわけで、成済兄弟が血祭りに上げられてしまうんですね。


悪玉超人賈充。
前回に引き続き、悪行ぶりがエスカレートしていきますね!年を追うごとに彼の悪巧みにはいやらしさと磨きがかかり、隠れファンも多いことでしょう(゚д゚)!



成「わしに罪はない!賈充が貴様の命令だと言ったのだ」


続く!



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賈充 part.3 蜀を滅ぼすために大活躍…どころか端役です



どうも!


諸葛菜です!


賈充さん、司馬昭の懐で助言をし、諸葛誕討伐、曹髦殺害など暗躍中。



第115回。


度々魏の国境を犯す蜀の軍勢は、中華の3分の2を支配する司馬昭にとっても目の上の瘤です。


姜維の侵攻には、洛陽にいる司馬昭もブチギレ!


「実にわしの患いの種ジャ!」


賈充が、


「姜維は孔明の兵法を深く呑み込んでおりますゆえ、早急には追いのけることは出来ませぬ。知勇兼備の大将を一人遣わして刺し殺させますれば、大軍を動かす手間もはぶけるのではござりますまいか」


知勇兼備の大将?


鉄砲玉のことですよねw


姜維 を刺し殺すとなると、頭もよく腕っ節も良くなければならないので、知勇兼備と言いたくなるのはわかりますが。



蜀の大臣であった費イ宴会の最中に刺し殺した郭循 という魏の降将がいましたが、これに味をしめてしまったのでしょうね。

確かに、キーマンだけを殺せば、多くの犠牲を出さずにすむ可能性はありませんが、そうは簡単に行きませんよね。


荀ベンという参謀が、


「わざわざ殺し屋を雇わなくても、大軍でやっつければいいじゃないの」


と意見を述べ、司馬昭もこの意見を入れ、結局、大軍で攻めることになりました。



で、トウ艾 、鐘会の活躍により、蜀を平らげるのですが、成都を支配下においたトウ艾が己の功を鼻にかけて独立する野心有りと、司馬昭に判断され、ここで賈充が一言。


「鐘会を位につけて、彼を牽制せしめたら良いと存じます」



この策略に、鐘会&姜維が見事に乗っかります。
鐘会もトウ艾に嫉妬しまくりですからね。疑心暗鬼にも陥り、トウ艾をハメるべく奔走しました。



姜維 part8 剣閣に立て籠もるも降伏 鍾会とともに反乱



もちろん、賈充の性格ですから、鐘会の行動にも疑いを抱き始めます。
司馬昭自身が大軍を率いて出陣します。これには引き篭もり気味の賈充も同行したのかな。


蜀を平らげた魏ですが、その命数もすでに尽きようとしていました。



司馬昭は、子供のいない兄司馬師に自分の息子である司馬攸を養子に出していたので、彼に位を譲ろうとしましたが、賈充らは自分の世継ぎである司馬炎がいるにも関わらず、司馬攸に位を与えるのは不吉であり、司馬炎自身も帝王の相をがあるので、是非、司馬炎を立てるよう諌めました。



司馬炎が晋王となり、司馬昭の取り巻きであった賈充も出世。


ある日、司馬炎が


「曹操はかつて『もし天命がわしにあるとすれば、わしは周の文王となるであろう』といったというが、これは本当か」


賈充、


「曹操は代々漢朝の禄を食んでいたものゆえ、簒奪の汚名を受けるのを恐れて、さようなことを言ったもの。曹丕を天子となさんとの下心は明らかでござります」


諸葛誕も言っていたけど、あんたの親父である賈逵とあんただって曹一族から給与もらっていたんだから、いくら新興勢力に阿るため、保身のためとはいえ・・・もっと他の言い方があったんじゃないの?


「父上と曹操を較べてどうか?」


と、聞かれた時も、

功績は大きいけれど、人民は特になつかずに東西に戦ばかり。司馬懿、司馬師、司馬昭が徳を敷き、蜀をも平定し、功績は曹操とは比べ物にはならない。



と、シャッキリポン。



受禅台を築いて、魏を嗣ぐように献策しました。






司馬炎は曹奐を脅迫し、トントン拍子で受禅の儀式まで進み・・・皇位を司馬炎に譲ることに…。



曹奐も、


「どうしたら良かろうか?」って、賈充に聞いていましたからねw聞く相手が間違っていました。


「魏の命数はすでに尽きました。このうえ、天に逆らうのはよくございませぬ。陛下には、漢の献帝の例に習われ(略)」



曹奐陛下、これにて皇位を追われることとなり、禅譲。玉璽を司馬炎に差し出しました。




司馬の裏に賈充ありっ!( ゚д゚)


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夏侯玄 夏侯尚の息子 名士にして文人 そしてバーリートゥード上等の熱い漢だった!

どうも!諸葛菜です!

最近、メジャーキャラが続いているなあ・・・。


今回はイケメン学者の夏侯玄先生だ!


夏侯玄
父:夏侯尚 叔父:夏侯覇とか 親戚:夏侯一族
夏侯玄ウィキリンク


ウィキを見ると夏侯玄さん、なかなか熱い漢ではないですかっ!
自分で称号をつけちゃうとか、曹爽と一緒に蜀を攻めて惨敗してましたけど、優れた人物を抜擢したり、政策についてもいろいろといい意見を言っていますね。


さて、演義での夏侯玄は?


演義での登場回は第109回。


カメラは魏の朝廷。
時の皇帝は曹芳。


司馬師が皇帝の御前にもかかわらず帯剣して出仕。
司馬師は警護の兵数千をつれて退庁。曹芳の回りにはたったの3名。

すなわち、太常卿夏侯玄、中書令李豊、光碌大夫張シュウである。(原文ママ)


強力な臣下に実権を握られている皇帝の側近リストに名前が・・・。


これ、すなわち死の宣告でありんす。


曹芳は司馬師にないがしろにされていることを3人に愚痴ります。


夏侯玄も、
「夏侯覇が蜀に下りましたのは、ひとえに司馬兄弟の兇刃のおよぶのを恐れたからにほかなりませぬ。(中略)臣は皇室に連なる者として、奸賊が国を乱すのを座視するに忍びませぬ。ともに詔をいただいて賊を討ちとう存じまする!!」


そして、血判状をしたためます。

ええ、小指をカリッて奴です。

あとは読者さんのお察しのとおりです。


以上!





え?まだ書くことがあるって?

はい、書きます。



曹芳、
「朕の太祖武帝(曹操)が董承を誅せられ(略)」

とネガティブ発言。


三人は曹芳を励まし、涙ながらに曹芳のもとを退出。


そこへ警護の兵を従えた司馬師とばったりご対面。

李豊、張シュウがおべっかを使って切り抜けようとしますがあえなく失敗。


司馬師
「三人ともまぶたが赤くなっておるではないか!まだしらをきる気か!?」


夏侯玄
「われらが泣いたのは、貴様が天子をなみし、簒奪を企んでおることをだっ!!!」

(原文)
激怒した司馬師が、夏侯玄をひっ捕らえよと下知すれば、夏侯玄は拳を固めて打ちかかっ(略)




夏侯玄イったーーーーっ!





・・・しかも素手で・・・(iДi)





夏侯一族は戦闘種族だっ!なめるなよぉぉぉ~~~!ヽ(`Д´)ノ









この重囲を突破できるのか?




(屈強の者共)



たちまち屈強の者どもに取りおさえられる。(原文ママ)



夏侯玄ら三名は捕らえられ、腰斬の刑に処され、三族は皆殺しに。

三名は口をきわめて罵り続け、市についたときには、いずれも歯を叩き折られていたが、なお、良く聞き取れぬ言葉で罵りながら死んだ・・・。



壮絶。



夏侯玄、残念です。

夏侯覇が蜀へ亡命する際、声をかけられたようですが、断ったんですね。


あの時、一緒に亡命して蜀宮を盛り立ててくれれば・・・。

ウィキを見ると国を思う志士ですね。かっこよかったです。



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賈充 part.4 呉への出兵を必死に諌める司馬炎の取り巻き



どうも!


諸葛菜です!


司馬昭から司馬炎へ王位が継承され、継承とほぼ同時に晋の皇帝となった司馬炎。
司馬家には大変忠実な賈充も、司馬炎に嫌われるどころか腹心として大活躍です。


三国志演義第120回。


晋・呉の国境では羊コと陸抗がにらみ合いを続けておりましたが、二人の仲が親密すぎるということで、呉皇帝孫皓は前線の大将から陸抗を外してしまいました。


民心はすでに孫皓からはなれ、前線の大将陸抗もいなくなったので、呉討伐の好機はまさに今!と、羊コは上奏文をしたためました。


しかし、これを極力諌めたのが賈充。

このため、羊コの提案は受け入れられること無く、羊コは失意の中病死。


この後、王濬、杜預が揃って呉を打つべしとの上奏文を送ってきたので、司馬炎は腹をくくって呉討伐を開始いしました。

ただ、演義には書いていませんが、賈充はかなり反対したようです。

この時代では、西方の異民族秦で大きな暴乱が起こっていましたし、これには司馬炎も大いに頭を悩ませていました。

馬隆らの活躍により討伐は成功しましたが。


さて、ご討伐ですが、極めて順調です。このまま一気に呉の首都も落としてしまえ

司馬炎は大喜びですが、賈充の意見はというと


「我軍はすでに久しく異郷に労苦を重ねてきておりますゆえ、風土にあたり、疾病をおこすことは必定にござります。いったんお召しかえしのうえ、後図を策するのがよろしかろうと存じまする」


この意見に、張華は大反対。

すでに敵中深く斬りこんでいるのだから、このまま突っ走るべしと主張。


賈充、この意見に激怒。


「そなたは天の時、地の利ということを知らないのか。みだりに功名心をかきたてて士卒を疲れさすなどとは、そなたを斬って天下の見せしめとしてもたりぬほどじゃぞ」


政治的な部分ですよね。
賈充は出兵に反対してきた人ですし、きっと宮廷の主戦派と反対派の争いがあったのでしょうね。
週刊ヤングジャンプで連載中の『キングダム』でも、秦VS6国連合合従軍で戦争反対派と賛成派に分かれて喧嘩していました。

晋が勝利しそうなので、賈充としても危機感を抱いたのかもしれません。


結局、呉を屠ることに成功するのですが、演義では賈充がつらい目に合うシーンはなし。

とっ捕まえた孫晧様に嫌味な質問をした挙句、逆に辱めを受けるというオチで終了。


賈充「聞くところによれば、孫皓殿には、つねづね人の眼を穿ったり、頭の皮を剥いだりされたとか。これはいかなる刑にござるか」


孫晧「臣下の身でありながらその君を殺したり、奸佞不忠の者には、この刑を加えたのでござる」


賈充は恥じ入って引っ込むのみ。


やれやれ。
賈充さんを書きを終えましたよ。てか、かなりいい加減だなあ…。
賈充はメジャーで、三国志マニアにはすでに知れ渡っている有名人だし、私もそれほど気になる存在でもないので、演義をなぞるようなまとめになってしまいました。




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