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Channel: 三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
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中国人の鄧艾(トウ艾)将軍への評価をざっと書いてみた

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どうもっ!


諸葛菜です。




前回、中国人の姜維評を翻訳し公開させて頂きましたが 、なかなか辛口意見ばかりで、「姜維何やってるの?」票が多かったですね。



私のような姜維好きでも、なるほどね~と頷いてしまう意見ばかりでした。
まあ、姜維の評価というのは、概ねこんな感じだったんでしょう。



さて、今回はトウ艾ですが、私が知人にトウ艾の意見を聞いたのではなく、三国志に対する思い入れの強い中国人がネットでトウ艾に関する思いをぶちまけていたので、翻訳してみます。


鄧艾関連記事:


トウ艾 part1 魏の名将にして忠臣 カン丘倹鎮圧、蜀漢滅亡に大貢献!

トウ艾 part2 姜維軍を手玉に取り、魏のスーパーエースに!


鄧艾・鄧忠(トウ艾・トウ忠)の墓



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



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三国志に登場する人物の中で、最も私が惜しみ悲しむのがトウ艾だ。

このような天才は何年、何百年に一度出るのだろうか!トウ艾は果報者でもあったし、部下に対する温情も深かった。戦に関する才能は、生まれつき備えていたもので、まさに天才である。



彼は最終的に失敗したと言っていいかもしれないが、彼が天才であることに変わりはない。天才の光芒は、凡人からすると引け目を感じるほどまばゆいものだ。



天才というものは同時に悲劇的な宿命をおうことになるか、または、これは天才ゆえに持ってしまった過度な自信によるものかもしれないが、彼ら天才の持つ夢は遠大で実現するのが難しいものであることが多い。



そのため、道半ばで死んでしまうことも多いし、周喩や諸葛亮などは代表的な人物であろう。
私は、トウ艾もそのような天才だと思っている。



トウ艾の生まれは卑しく、彼がどれだけ大志を抱こうとも、周囲の人達からは軽んじられていた。中国の伝統文化の中で、その人の出生というのは非常に重要視される項目である。初対面の人と話す時は自分の出生や身分を称していた。

だから、劉備は自分自身が蓆売りでも、漢王朝に通じる人間であるということを常に言っていたのだ。
あの時代は、身分の高さが能力に比例すると思われてた時代だった。今ではおかしな考えだが、あの時代の価値基準ではそうだったのだ。


つまり、このような価値観が根付いていたので、幼い頃身分が低かったトウ艾が、軍事の天才であっても世間の人からは返ってバカにされていたのである。


しかし、トウ艾は幸運の持ち主と言って良いだろう。人材を発掘する天才に巡り会えたからだ。韓愈が言うには、「千里の馬はよく見かけるが、それを見ぬく人は見かけない」と言っていた。


トウ艾という千里の馬を発掘したのは司馬懿だ。彼の軍事的才能は、彼によって発揮できる場を与えられたと言える。



神は人より秀でた才能を与えると同時にそれを振るう機会を与えてくれるのであろうか?私はそうは思わない。


トウ艾の軍事的才能は蜀の姜維との攻防戦において、痛快極まりなく発揮されていた。

確かに、姜維の能力は抜きん出ていたが、諸葛亮の教えを受け継いでいたのである。


しかし、トウ艾は自分の能力をよりどころ(我流に近い)にして彼と戦ったのである。的道場の攻防戦、段谷の伏兵…トウ艾が掌を指すように蜀軍を追い詰めているシーンはたくさんあった。しかも、彼の神がかり的な才は、地理を頭に叩き込んでいたこと、姜維を深く理解していたことである。



トウ艾にとって相手の姜維もありふれた輩ではない。が、姜維の才能は返ってトウ艾の尋常ならざるところを際立たせた。


姜維が八卦の陣を敷いたり、陣合戦で優位に戦いをすすめていた中、トウ艾は深手を負ってしまったが、トウ艾は逆に反計を使って、姜維を撤退せしめた(蜀の黄皓に使者をやり、姜維を撤退させる勅を書かせるよう仕向けた)。


いつもトウ艾が勝っていたわけではないが、勝敗は別にしてトウ艾は姜維の侵入を防ぐことに成功している。このため、姜維の北伐はその数だけ失敗している。



もちろん、姜維の北伐の失敗の影には政治的な問題も絡んでおり、姜維が能力不足だと決め付けることはできないし、もし、トウ艾のような武将がいなかったら、歴史は多少変わっていたかもしれない。



トウ艾の非凡な才能は、周囲の人からも称賛され、陰平の険をわたっての神出鬼没な戦いぶりはまさに神がかりと言ってよかっただろう。



非凡な才能を持っていた鐘会であったが、トウ艾が陰平を越えて成都に攻め入るとはバカなことだとあざ笑った。天才といっても様々な種類がいるものである。



他の人が思いも付かないことを思いつき、できもしないことをやってのける・・・トウ艾は自分で思いつき、自分で実行していける才能を持った人物だったし、彼が一番輝いていたのは、この頃であろう。



天才が光芒を放つ時が、一番危険な時期であるといっていい。
軍事の天才トウ艾は、成都を落とすことに成功した時にその幕が下がったと言える。中国の古いことわざで「森の中にある抜きん出た大木は必ず大風に煽られる(日本で言うと出る杭は打たれるですな^^;)」がある。



一人で大功をおさめてしまうと、周囲の風当たりが強くなり、多くの人から恨みを買ってしまうのだ。

トウ艾の傑出した才能は・・・司馬昭からも疑われ、鐘会に恨まれた。


この二人に図られたら、トウ艾でも逃げることはできない。
哀れなトウ艾は、味方の刀の下に殺されてしまった。


彼の死を思い返してみると、彼の功績はあまりに大きかったことと、自分の才能に自信を持ちすぎて、他人よりも常に高い地位に居たかったことであろう。

この辺りは謙虚さにかけていたと言わざる負えない。自分が功績を上げたことで、周囲からどんな目で見られるかをもっと客観的に考えるべきだったのではないか・・・と思うのである。


今も昔も、謙虚な心が必要だということだ。出る杭は打たれる。


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三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


まあ、特に目新しい切り口でも無かったですが、トウ艾の「ちょっと周りが見えなくなっていた感」がよくわかりました。


中国では出る杭は打たれますね・・・。歴史でも証明されているように、功臣の多くは最終的に粛清されたり、不遇をかこつことになるか、自分で独立しようとしますね。



今の中国もそう。

一般企業でも、能力があり成績のある中間管理職は、睨まれます。
能力のある人は会社を踏み台にして、自分で独立したほうが儲かると思うし、中国人と日本人の組織に対する考え方も違います。



日本では大きな組織を作って、その組織を盛り上げていって、多くの雇用を生み出しそこで生活(働く)していくことが一般的です。だから大企業で働くことは、社会的信用もあるし、働く方も安心感があります。



中国の場合、就職先のネームバリューも評価すると思いますが、中国人は大きな組織の一人として金を稼ぐよりも、小さな組織でも頭を張ることに重きをおきます。


小さな会社でもトップにたてば、収入は数倍にもなりますし、自分の思い通りに事が運べます。



中国の組織は日本ほど結束が強くありませんし、よく言われるのは、「一人の中国人は手強いけど、十人の中国人は手強くない」です。


かなり話がそれましたが、トウ艾もまた悲運の武将…。
姜維ともどもドラマちっくな漢でござんした…。



トウ艾将軍に敬礼!!



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三国志後半武将人物名鑑


司馬昭 part2 反乱鎮圧!朝廷席巻!俺の前にはペンペン草も生えさせねえぜ!

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どうも!


諸葛菜です!


お久しぶりの更新です。


さて、今回は司馬昭の続き。

前回までの記事はこちら。

司馬昭 父司馬懿、兄司馬師の跡をついて覇道をゆくっ!




三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


裏ワザ的な祈祷を使って、姜維の包囲網を脱出。
しかし、味方の損害も大きかった。多くの兵士が死に、羌兵もにしました。さらに、徐質、郭淮が討ち死に(演義では)。





司馬昭は朝廷に戻ってからは、自分の戦での敗北を一切恥じることなく、朝廷内を兄司馬師とともに切り盛りした。


文武百官はその威をおそれ、何も言えないばかりか、皇帝の曹芳すら意見一つ言うこともできない有り様で、針のむしろに座っているような人心地でありました・・・。


司馬昭が帰国した時も、玉座から滑り降りて迎える曹芳。


司馬昭の威勢MAXですな。


曹芳が司馬氏兄弟を覗こうと、夏侯玄らとともに謀議を重ねましたが、結局バレてしまいました。



詳細はこちら:

夏侯玄 夏侯尚の息子 名士にして文人 そしてバーリートゥード上等の熱い漢だった!


曹芳 曹叡の跡継ぎ 魏の皇帝 傀儡皇帝第1号は僕だ!


張緝(チョウシュウ)李豊 司馬師暗殺計画前にも、司馬氏批判の言動も


司馬師 司馬懿の長男 魏の曹芳を廃位 飛び散るお眼眼・・



で、曹芳が廃帝となり、新しく曹髦が皇帝になりました。





第110回。
この回では毌丘倹、文欽が司馬氏兄弟の専横を憎んで挙兵しますが、司馬昭は戦場にでることはありませんでした。


「弟司馬昭を洛陽にとどめて朝廷の政務をみさせることにすると、」


洛陽でのお留守番^^;


終了!

毌丘倹 part1 叛乱だけの漢じゃない!高句麗征伐で武功


文欽 ノリがいいだけの漢じゃない!司馬一族に2度逆らった義士


兄司馬師はこの戦いで死んでしまいました。



当然、司馬昭は兄の大任を引き継ぎ、許昌で兄を葬りました。
洛陽から早馬が来て、「東呉に備えるため、許昌に留まれ」と勅命がきましたが、知恵袋の鐘会が、「こんなところにとどまっておられて、朝廷に変事が起こったらどうなさるのですか!」と言われて、洛陽へ出立。


司馬昭は大将軍となり、内外の事は大小となく彼の手にすることとなりました。




司馬昭は、大将軍の地位についてからも簒奪の機会を狙っており、まずは自分に対する不平分子を「狩る」行動に出ました。


諸葛誕は淮南で人心を掴んでおり、軍勢も擁しているので油断のならない相手。そこで、自分の飼い犬である賈充に諸葛誕の意向を探らせました。



諸葛誕は、


「皇帝に万一の事があれば、命に代えて守る!」


と、聖闘士星矢の聖闘士ばりの回答をしたもんだから、司馬昭は激怒!


結果、諸葛誕は挙兵。

司馬昭は諸葛誕退治のために自ら出陣しました。


抜け目の無い司馬昭、いや、鐘会でしょうか。
司馬昭が出陣すると、朝廷は皇帝曹髦が好き勝手をやるのではないかと、警戒して無理やり親征させました。


諸葛誕退治は呉から援軍が来たり、少々時間がかかりましたが、概ね順調といった形で片付きました。


参照記事:

諸葛誕 狗と呼ばれた男…魏の皇室のために司馬氏に鉄槌を振りかざす!!


楽綝(楽チン) 楽進の息子 剛毅な武将の最後


朱異 朱桓の息子 優秀な将軍だけど性格に難あり?


于詮 籠城することに意義がある!演義第112回のタイトルは俺がもらった!


この戦いでは鐘会の悪知恵、懐刀ぶりが目立ちましたね。


司馬昭は、

「そなたは、まことにわしの子房(張良、漢の高祖劉邦の謀臣)じゃ♪」


と、鐘会を絶賛。





曹髦を狩る!

曹髦は自分のことをどじょうや鰻にたとえた詩を作り、司馬昭にいじめられているけど、臥薪嘗胆、反撃の機会を疑っていることをほのめかしてしまいます。


これを知った司馬昭はすぐに参内して、我ら司馬親子をどじょうや鰻に例えるのはどういうことだ!?

と詰めより、曹髦を追い詰めてしまいます。


結果、曹髦の暴走を促してしまいます。


曹髦 part1 曹芳の後を継いで魏の皇室を背負ってたった若君!


曹髦 part2 魏の皇室のため、自ら肉弾と化す!


成済、成倅兄弟! 司馬昭・賈充にはめられ皇帝曹髦(ボウ)を殺害


焦伯 曹髦のために散った、隠れた忠義の士!華麗なる出オチ!


司馬昭は賈充に命じて、曹髦を討たせ、賈充は成済に命じて曹髦を殺させてしまいました。


しかし、曹髦を殺しても、自分が帝位につくことはしませんでした。

「むかし周の文王は天下を三分してその二まで有しながら、殷に臣事したゆえ、聖人も至徳の人としてたたえたんじゃ。魏の武帝曹操が漢の禅譲を受けようとしなかったのは、わしが魏の禅譲を受ける気のないのと同じじゃ」


おもいっきり、息子の司馬炎を皇帝にさせるフラグをぶっ放してこの回は終了。


まさにイケイケの司馬昭。
彼に落日の日は来るのか・・・。



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劉禅 蜀のラストエンペラー 謎は全て解けた!

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どうも!

諸葛菜です。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



ついに大御所、蜀の皇帝劉禅です。

このブログはこの漢を書くために存在しているのだっ!



ってほどでもありませんけど^^;、重要人物であるのはたしかですな。



三国志演義後半では暗愚っぷり全開で、中国の明時代から現在まで多くの読者に憎まれた漢ではないでしょうか?


三国志演義では、暴君の孫皓よりも際立ってダメ君主振りが描かれています。


劉禅の幼名である阿斗は現代中国語でも「馬鹿」「アホ」の代名詞ですし、やっぱり後世からは良い目で見られてはいません。



ただ、最近はいろいろな意見があり、戦を止めさせたのだからそこは評価すべき、勇気ある英断などという意見もあるから、あながちアホ扱いできないのかもしれません。


劉禅評は長くなりますからな。下手に記事にできません。




さて、そんな劉禅ですが、三国志演義後半に至るまでを簡単にまとめてみます。


劉備と甘氏の息子。
大人になってからはダメ君主だが、物心もつかない頃に修羅場をくぐっている。


曹操軍に追われた劉備は、荊州の人民を伴って大脱出。
そこで激しい追撃を受けるのですが、劉禅は母親甘氏に釣れられていましたが、母親は命を落としてしまいます。

趙雲に助けられ、間一髪で父親の元にたどり着きますが、おやじの劉備にぽいっと投げられてしまう。


「子供はいくらでも産めばいい、良き将軍はまたと得られない」


子供は父の枝葉である。


漢の高祖劉邦も項羽に追いかけられている時に自分の子供を馬車から投げ捨てていましたな。


物心つく前に実の父親からのこの仕打ち。


父親も辛酸を嘗めながらもどうにかこうにか蜀漢皇帝となりました。

父の死後、宰相の諸葛亮以外はそれほど大物はいませんでしたが、スーパーパワーを持つ諸葛孔明に助けられ、血腥い戦場に行くことなくぬくぬくと宮廷で暮らしていました。


そんな諸葛亮任せの日々でしたが、234年、ついに諸葛亮が五丈原で死去。


劉禅は諸葛亮の死の前後、思い煩って寝食も定まらぬまま不安な毎日を贈っていました。ある夜の夢に成都の錦屏山が崩れる夢を見て驚いて目を覚まし、すぐに文武百官を集めて評議。



魏延 part2 孤高の戦士 謀反を起こしたと思われ楊儀た…

趙直 蜀の死亡フラッガー 魏延にダメ出しの凶夢を吉夢と偽る!


ショウ周が言うには、丞相のみに何か凶事があった兆しであると見解を述べました。


劉禅は慌てるのみ。


李福が到着し、丞相の死を告げると、劉禅はその場に泣き伏してしまいました。


「天は朕を滅ぼしたもうか!」


フラフラになってしまった劉禅は後宮に引き篭もりがちになってしまいました。この間、朝廷に出勤することもなし。
魏延から楊儀謀反すの報が入ると、百官たちは後宮に押し寄せてこの旨を劉禅に伝えました。


楊儀からは魏延の方こそ謀反だとの一報が入り、劉禅は大混乱。この事態に全く対応できていないのを見かねた呉太后が、


「そなたたちはどう思うか?」


ショウエン、董允が

「楊儀は諸葛亮の生前から事務仕事をきちんとこなしていたし、臨終にあたって大事を託したわけだから謀反をすはずがないんじゃないか」


「魏延は前から楊儀のことを煙たく思っていたし。諸葛亮が死んだからこれみよがしに謀反を企んだのだろう」


と、半ば魏延を悪者にして勘ぐっただけとも取れない発言のように思いますが、劉禅は、


「魏延の謀反が明らかになったうえは、どうして彼を防いだらよいか」


と、真犯人を魏延と後宮で断定してしまいました^^;


まあ、この後戦場から戻った費イによって、魏延謀反の報が入ったので明らかになったのですが。


費褘 蜀の四相の一人 剛胆な蜀の重臣


劉禅はとりあえず董允を遣わして魏延に帰順をすすめるよう支持しました。


ボンクラ皇帝、ダメ皇帝と呼ばれて久しい劉禅様ですが、孔明の死後という異常な状況下において、オドオドしたり呉太后に仕切られたりしながらも文政だけは怠らず、真犯人である「魏延」を特定しました^^;


今後の活躍にも期待ですな♪

周大荒さんの反三国志を10数年ぶりに手にとってみた

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どうも!


諸葛菜です!




買っちまいました。


ヤツを・・・



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
表紙の絵も読者を惹きつけるに十分な魅力を持っていますな!



反三国志です。



ブックオフの105円コーナーに「下」だけ転がっていたので思わず買ってしまいました。

確か高校生の頃、新品で上下巻(@700円)を同時購入して後悔した覚えがあるのですが、内容をすっかり忘れてしまいました。


裏表紙も気合が入っておりましたし^^;


「魏の司馬仲達、蜀の諸葛孔明の作戦にはまり、爆殺される!これぞ真の三国志。孔明の巧みな軍略で魏の諸城は次々と陥落し、憂悶のうちに曹操は死ぬ。追い詰められた魏は呉と手を結び、最後の決戦を挑む。『三国志演義』の虚構を暴き、卓越した構想力で三国抗争の真相に迫る。壮大なスケールで描く歴史長編」



下巻を開いてみると、第27回よりスタート。
諸葛瞻がいきなり登場!馬超と一緒に魏の軍勢と戦います。


龍門を奪い取るのがミッションのようで、諸葛瞻にとってはこれが初陣。
若気の至りとばかりに勇んで突撃、魏の先鋒の王雲たらいう部将を捕獲。この王雲、王凌の配下でした^^;


王雲は諸葛瞻の度量に感服し降伏。
王凌の陣に戻った王雲はかつての自陣に着火。

王凌は腹ばいになって陣から抜け出し逃亡。


ミッションクリアはなりましたが、王凌の部下である文欽・文鴦が諸葛瞻の行く手を阻みます。

王雲は文鴦に突き殺されて死亡。


諸葛瞻の武力も相当高く、文欽の左腕を刺し貫き逃亡させます。
文鴦は更に強く、応援に駆けつけた関索、馬岱と五分以上に渡り合います。諸葛瞻が加わったので文鴦は支えきれず逃亡。


逃げ帰った文欽、王凌は司馬昭に敗戦の咎を責められ、囚人車に乗せられて洛陽へ護送されます。


文鴦は、「王凌はともかく、おやじと俺は王凌を助けに向かっただけなのに護送されるとはけしからん!」


と息巻いて、護送車を襲撃。

二人を救出して蜀漢へ亡命します。




10数ページ読んだだけでもうお腹いっぱいっす。
三国志演義後半武将もほぼ書き尽くした感があるので、ブログ記事を反三国志の物語で水増ししようという下心がありましたが、読んでいて疲れました^^;



巻初の登場人物紹介を読めば「反三国志」をすべて読んだ気になれるほど、ネタバレの激しい内容になっています。すべて読まなくても登場人物欄を読んでおけば、7割方OKっ!ヽ(`Д´)ノ



于禁、華歆、韓当、許チョ、黄蓋、顧雍、司馬懿他司馬氏、周泰、鐘会、トウガイ、張遼他、魏呉の武将たちはいずれも都合よく討ち死に、または自殺、はたまた事故死ということで片付けられています。



蜀の武将たちはみんなめでたしめでたし。


ただ、劉禅だけは呉の武将徐盛の食客に暗殺されてしまいます。


帝位はなぜか長男でもない劉ジンが継いでいます。



三国志演義で蜀の発展の障害になった者達はきちんと殺処分されていますね!



鐘会、諸葛瞻が馬超他三国志前半武将たちとも戦っていたりと時代背景にこだわっていません。このような設定はゲーム「三国志9」英雄集結に遊び慣れている方なら割とすんなり受け入れられるのではないでしょうか。



鐘会、トウガイも噛ませ犬で終わっています。





三国志の亜種は漫画、小説で大賑わいですし、1918年頃書かれた小説である反三国志は作者の周大荒さんの当時の中国に対する感情が描かれていると言ってもいいでしょうね。


当時は軍閥が各地で一斉に成り上がり、周さんも小軍閥の幕僚を務めていたそうです。



1920年代に、北京市内の古書店で購入した「三国旧志」なる怪しい内容の古文書(筆者による創作または偽書と思われる)などにヒントを得て、袁世凱らの北洋軍閥を曹操に、孫文を劉備になぞらえた小説『反三国志』の執筆・新聞での連載を開始し、1928年に第1巻を刊行させた。

リンク元http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%A4%A7%E8%8D%92



1910~1920年の中国の軍閥割拠の時代と言ったら、近代の三国志・・・いやいや!
黄巾党がひと暴れしたのが落着して、その後董卓が荒れ始めたけど、呂布&王允と李粛に殺された後の三国時代並み に荒れ狂っていた時代です。


今はトチ狂っているけどw


周さんもすごい時代にとんでもない作品を作ったものですね。


私はこの本のあとがきを読む前は、てっきり「暖衣飽食した中国の現代作家の食いっぱぐれ」が書いたのかと思っていました…すみません。反省します。


きっと、当時の軍閥時代と三国時代を重ねながら書いた作品だったのでしょう。作者の時代背景を頭に置きながら読むといいかもしれません。



現代、週刊漫画において、中途半端な心意気で三国志に手を出すと、連載時は常に週刊誌の巻末に掲載され、打ち切りまがいの終了をさせられてしまいます。


覇-LORD-(三国志モノ)の第2巻を安く購入してしまった。

反三国志、もし読んだことがないようでしたら、スルーせずに立ち読みして1話くらいは読んであげてください!


鐘会が許儀を処刑してしまった件について…中国人による考察

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どうも!

諸葛菜です!


久々更新です!


許儀の死があまりにも辛すぎた…。三国志演義8巻を読んだ時に、心を折られたのが許儀の処刑でした。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



前半三国志とのパイプ役を担っていたはずの名将の2世タレント。
こういった人物をサクッと殺しちゃうから演義後半はなかなか人気が出ないんだよ!言い過ぎ^^;?


許儀の処刑は間違いじゃないけど、鐘会にも責任があっただろ?的な中国語で書かれた文章があったので、翻訳させて頂きました。


許褚(チョ)の息子許儀 超無念!インフラ整備に失敗し南鄭関に散る!


にも書きましたが、こんなやりとりがありました。


263年、蜀の国力が衰えたと見るや、司馬昭が鐘会、鄧艾に命じ蜀征伐を命じます。

許儀は鐘会の部隊に組み込まれます。


鐘会は、

「誰かが先鋒になって、山に道を切り開き、川には橋を架けよ」


と諸将に先鋒となるものを募ります。


「それがし、参ります!」


虎将軍許チョの息子許儀が立候補!!

諸将も


「許儀殿でなくばかないますまい」


と皆さんこぞって許儀を持ち上げます。

鐘会も、


「そなたは勇将として、親子ともども聞こえ高いものであり(中略)いずれも険しいところばかりゆえ、兵士たちに道をならさせ、橋を直させ、山をけずり石をくだかせて、遺漏なきようにせよ。仕損じたら軍法に照らして処分するぞ」


で、すったもんだあって許儀はインフラ設備を整えることに失敗。
挙句の果てに負けて帰ってきます。


「貴様は先鋒となったからは、山あれば道を開き、川あらば橋をかけ、橋梁・道路の修復に専念して味方の進むのを助けるのが当然の役目であろう(中略)命令に背いたからは容赦できぬ!!」



翻訳~~~~~~~~~~~~~


この話に、筆者は深い印象を受けた。鐘会は一世の名将であるし、西蜀を攻略し、中国統一に一役買った人物である。

しかし、許儀を処刑してしまった件については一定の責任を追わなければならないであろう。鐘会が許儀を先鋒に命じたのには3つの理由があった。


1.許儀が立候補したこと。
2.許儀が名将許チョの子であること。
3.みんなからの推薦があったから


立候補したのは自信があるためであり、勇気ある人物であるが、彼に任せて良いのかと踏みとどまって考察する必要もある。虚偽の父親許チョは確かに猛将であり、「三国志 許チョ伝」にも記載ある通り、『身の丈8尺あまり、腰太く、容貌雄偉、力衆を超えていた』とあり、彼は昔牛を引き摺って十歩歩いたほどの猛者っぷり。これを見た族共数万は驚いて逃げ出したほどである。


さらに、彼は半裸になって名将馬超とも戦い勝利。『虎侯』の称号を得て、魏軍の中でもその名は知れ渡っていた。


しかし、もしもこれを持って許儀まで父親同様の猛将と思ってしまうのは早計である。許儀は当然英雄だと思い、これに頼ってしまうのは正しいことではない。


諸将が許儀を推薦したが、許儀がこの任務に足る人物か、もしくはふさわしい人物かをきちっと分析すべきであった。


親父が許チョだったから息子の許儀なら当然うまくやってくれるだろうと考えたのなら、それは浅慮という他ない。もしかしたら諸将の中にも許チョとつながりの深いものがいたかもしれないが。

鐘会は決して、許儀の能力を知って任せたのではなく、許儀の一言で先鋒軍の印綬を渡してしまった。これは明らかに鐘会の軽率であった。


このため、許儀は先鋒としたのは鐘会のミスである。しかし、許儀を斬り捨てたことは間違ってはいない。
鐘会は決して、許チョが数々の武功を立ててきた事が疎ましくて許儀を処刑したのではない。


許チョの功績はすばらしいが、その功績そのものは許儀のものではない。許チョの功績をもって許儀のミスの穴埋めをすることも当然出来ない。



鐘会は軍の規律に則って処理をしたのみ。この点は鐘会を評価できる。


もし、我々の上司がコネ入社や二代目(いわゆる許儀的な幹部)を闇雲に重用するのではなく、部下の能力を推し量った上で仕事をしていけば、「馬の前足が蹴躓くこと」もなくなるのではないか。


中国の幹部が自らを律し、共産党幹部たちに規律を守らせれば社会主義建設の事業にとって、障害が少なくなるであろう!国家が富み、強くなるであろう!規律は緩くしてはならないのだ!

~~~~~~~~~~~~~~


最後は爆臭共産臭ぶっ放していましたが、こんなことは放っておいて。


鐘会もその他大勢のモブ武将共の意見に流されすぎですな。
先鋒とは言え、ただ戦うだけでなく本軍が道を通れるようにしなければならず重大な任務です。


演義ではすぐに殺されてしまったし、一騎打ちのシーンもなく武力のほどはわかりませんが、決して弱いやつではなかったはずです。


細々した地道な作業よりも、もっと派手な戦場がふさわしかったのかもしれません。


「先鋒として行かなければ」


という気負いもあったのでしょう。

だけど、鐘会もそれを察して彼にブレーキをかけるべきでした。


まあ、無理か…。



許儀大将・・・



私は応援しておりますぞ!

みんなも応援しようよ!


「いいね!」・・・っていうか、「どうでもいいね!」



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三国志後半武将人物名鑑

馮紞(フウタン)賈充よりも性悪なの?晋の時代の佞臣

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どうも!


諸葛菜です!



馮タンって三国志演義後半にもちょこちょこ出てきます。


曹奐をいじめる時、司馬昭や司馬炎をヨイショする時にしか登場しない、宮廷のモブキャラかと思ったら、三国末期や晋初期の頃はなかなか悪どいおやじだったようですね。



馮タン字は少冑、安平(河北省冀県)の人。祖父馮浮は司隷校尉として洛陽一帯の軍事監督者であり、父馮員は司州汲郡(河南省汲県)の太守でした。


馮タンは幼少時から歴史を好み、弁才のある子どもでした。

彼は魏郡の太守となり、歩兵校尉、越騎校尉を兼任した。武帝司馬炎の寵愛を受け、左衛将軍に任じられました。



晋書によると馮タンは媚びへつらう能力にたけており、司馬炎を喜ばせるのが得意で、彼に対する寵愛は日々増していきました。司馬炎の寵愛を受けると同時に、保身も忘れていません。その他の取り巻き連中である賈充、荀勗らとも交流を深め、自分の地位を安定させました。



馮タンの内政での貢献が記されている文献は少なく、馮タン伝では2つしか話が載っていません。


ひとつは賈充が中央政府から、辺境の地へ出陣させられる(西方の異民族が大猖獗中で、楊欣牽弘 ら三国末期の地味武将が相次いで討ち死に。司馬炎は賈充を派遣しようと考えていた。)のを防いだこと。

賈充の娘賈南風を太子のお妃にしようと運動をしたことです。


※異民族は馬隆ジェネラルが見事に退治しました。


娘はとんでもなく残虐で宮女を殺しまくったので、司馬炎は大激怒して彼女を殺そうとしましたが馮タンや荀勗が彼女を保護したため、死刑は免れました。



司馬炎が重病を患い、やや回復しかけた頃…馮タンと荀勗は朝廷内が斉王司馬攸に後を継ぐのではという空気を嗅ぎとっていました。馮タン、荀勗らは周囲からは奸臣と思われていて、司馬攸も彼らを疎ましく思っていました。荀勗は太子である司馬衷は暗弱なため、司馬攸が後を継いだら自分の立場が危うくなるのを察していました。


荀勗は馮タンに司馬炎にこのように言わせました。


「もし、陛下に不測の事態が起こった場合、太子は廃されることでしょう。斉王は民心を得ておりますし、朝廷の人々からも尊敬されています。皇帝の座は斉王のものになるかもしれません。斉王を遠くにお遣りになり、社稷を安定させてくださいませ」


司馬炎は馮タンの言うことを丸呑み。



司馬炎と司馬攸との兄弟関係は悪くはありませんでしたが、馮タン・荀勗からの「離間の計」にかかり、後継者問題を重く見始めた司馬炎は司馬攸を地方へと左遷させました。


司馬攸への処遇に対し、朝野の人々は悲しみました。司馬炎も相当心苦しかったようです。


しかし、馮タンは司馬炎が泣いているのを見た時、


「斉王の名は実に過ぎておりまする。もし今彼が死んだら晋にとっては正に吉でございまするぞ。陛下はなぜそこまで悲しむのでござりまするか?」


司馬炎はこの言葉を聞いて泣くのをやめたそうです。



279年、司馬炎が呉を討伐する時、馮タンは豫州汝南の太守を務めており、龍驤将軍王濬が建業に攻め下った際に随行して功績をあげました。その功により御史中丞、侍中を歴任しました。


馮タンは賈充と同様、呉を打つことには反対していました。


荀勗、賈充らと共同して司馬炎に呉討伐をやめるよう引っ切り無しに上奏していました。


さらに主戦派の張華を腰斬の刑に処してしまえと上奏しまくっていました^^;


孫皓が投降した時ですら、呉討伐は失敗する、張華を斬って天下に示しをつけろと要求していました。
が、結果は晋の大勝利。呉平定後は張華を仇敵のごとく恨み、恐れたようです。



張華が司馬攸の擁立を企てているとの噂を聞きつけ、これをチャンスとみた馮タンは、「張華が司馬炎に反逆を企てている」とでっち上げ、幽州に左遷させました。

張華は、幽州で軍事総督を務め、異民族の慰撫にも成功し、名声を高めたそうですがw


さあ、馮タンの次の一手が気になります。


ある時、司馬炎に侍っていた馮タンは、鐘会謀叛の話を蒸し返しました。


「鐘会の反乱は…実は太祖(司馬昭)が引き起こしたものなのです」


司馬炎は顔色をさっと変え、


「貴様、何を言うかっ!」


馮タンはすぐに帽子をとって謝罪して、


「鐘会の才には限りがありました。太祖はわざと彼を褒めちぎり、大権をお与えになりました。鍾会の功は世を覆うほどになりましたが、謀叛を企てました。もし、太祖が恩と威を与えていれば、謀叛は起こさなかったでしょう」


司馬炎は深くうなずき同意しました。


馮タンは続けて、


「陛下は私めの意見にご賛同されましたが、どうか氷がゆっくりと溶けていくの座視なさらぬよう…鍾会のような人間に国家を傾けさせてはなりませぬ」


司馬炎は、


「今の世の中、鍾会のような人物が出ると思うのかね?」


馮タンは衝立の後ろにさがり、左右をみながら、


「陛下のために策謀をめぐらし、大功を立て、軍の大権を握っている者です」


これはもちろん張華のこと。幽州で大功を収めていた張華を中央に呼び戻させまいと司馬炎に決意させたのですな。


小賢しい、つーけーの穴が小さい野郎です。
他人を陥れる才、保身術、社内政治力のある人間ほど、国の発展に殆ど貢献しないという好例ですね!

鍾会の話を蒸し返した時も、「あんたの先代はこんなポカをしたけれど、まさかあんたまで同じ轍を踏むわけではないでしょうな」と、司馬炎のハートを見事にくすぐりましたね。



この野郎は286年に死亡。馮タン危篤の報を聞いた司馬炎は散騎常侍に封じ、銭20万を与えたそうな。しばらくして馮タンは病没。


馮タンは混乱の種を散々撒き散らしておいて逝っちゃいました。
彼の撒いた種は、司馬炎が亡くなった後に見事に実を結ぶのですが、晋はわたくし諸葛菜にとって未だに「あなたの知らない世界」^^;。



張華よ・・・安らかに!


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三国志後半武将人物名鑑

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両晋演義、東西晋演義 三国時代の後を描いた本だけれども…?

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三国志後半武将人物名鑑


どうも!


諸葛菜です。



手つかずの三国志演義武将達も、後半の末期に来ているのでどうしても司馬炎、西晋絡みの話になってしまいます。


前回、晋の悪玉菌馮紞(フウタン)賈充よりも性悪なの?晋の時代の佞臣 について書きましたが、やっぱり蜀が滅んだ後から晋が呉を併呑するまでの地味で凡将ばかりの時代が気になります。


そんな思いは私だけでなく、三國無双7で文鴦司馬師 など晋キャラを使ったプレイヤーであれば少なからず、蜀滅亡後のあの時代に思いをはせたはずです!


馮タンの資料を探していた時にふと見つけたのがこちら。





三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


『両晋演義』


こんなんあるんですな!もちろん中国語ですけど、めっちゃ気になります!

中国人の書評家のレビューがありましたので、それを翻訳してみました。




東西晋を題材に書かれた小説である。東西晋に接触したことのある大半の人がよくご存知の蔡東藩が書いた<中国歴代通俗演義の東西晋演義>だ。


全話100回。この本は中国の4大名著(三国志、水滸伝、西遊記、紅楼夢)には遠くおよばないことは、予めご承知置きたいところだ。


一話一話のつながりが薄く、物語全体に筋が通っておらず、登場人物が多く登場するだけ。この物語は三国演義のような個性ある人物は登場せず、水滸伝のような派手な描写もない。紅楼夢、西遊記と比べても…例に上げる必要もあるまい。


これらが…西晋の物語が四大奇書の仲間入りを果たせない大きな原因だろう。




三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界

『東西晋演義』


晋の物語と言ったら、明朝の楊爾増の著書『東西晋演義』を上げることができる。
この本は350回からなっており、「王濬と王渾が大功を争う」から物語が始まる。

読み終わった率直な感想だが、この本は上述の『両晋演義』に及ばないことだ。


この小説は時系列に資料をすくい上げた後、それに各話のタイトルを付け足しただけである。物語の文章には白話文(話し言葉)が所々用いられており、これだったら資料を丸写ししたほうがましであろう。


もし、この小説の良い所を無理矢理にでも挙げてみろというのなら、『両晋演義』よりも内容が少し多いくらいだろう。まあ…この小説は時系列に並べ立てた記録だ。


~~~~~~~~~



ふむ…。


本の表紙を見た時は絶対に読みたい!と思いましたが、見事にこの気持を粉砕してくれました。


もし、中国に出張に行ったら絶対に新華書店で買ってやろうと思っていました^^;

危うく散財するところでありましたw


小説ではなく資料を貼り付けただけなのに、『演義』を名乗らせるのはいかがなものかなと。

しかも、ストーリーに筋が通っていないなんて、物語としても小説としても致命的としか言いようがありません^^;。


ぱっと見なかなかの佇まいですし、『演義』の二文字が入っているだけで、買ってみようかなという気にはなります。


そういう意味でも『三国演義』と言うのはかなりのブランドですよね。『演義』がこれほどまでの影響力を持つようになるとは、巨匠羅貫中閣下も思わなかったでしょう。


日本も中国に負けないくらいに三国志関連の「トンデモ本」が書店にひしめいていますが、三国志後期諸葛亮孔明死後を扱った本は多くありませんよね。「呉が滅ぶまでをえがきました」なんて出版社に持って行っても、それこそ相手にされないかも(冗)。



私が高校生の頃、書店で「後三国演義」なる本を見かけましたが、定価が2000円以上。ちょっと手が出ないし、文庫本反三国志を読んで消化不良を起こしていたので、パラ見して立ち去った覚えがあります。


懐かしくなったのでアマゾンで検索したら、案の定ネットの片隅に転がっていました。

Amazon ベストセラー商品ランキング: 本 - 1,331,866位
中古最低価格197円。
※2013年11月2日時点。


このランキングはアマゾンでも相当な低ランクですよ!

気になる内容ですが、


三国鼎立時代の最後に天下を統一した魏は、権臣・司馬炎に国を奪われて晋の時代となったが、諸王の権力争いから朝政は乱れた。女道士・石珠と武人・劉弘祖の二人は、続々と集まる憂国気概の同志と結んで、天下平定のために晋都洛陽をめざす。智謀あり、武勇ありの、武術、妖術の入り乱れる混戦のうちに、首尾よく勝利の日を迎える痛快な歴史物語。


レビュー


☆4つ
曹操も関羽も諸葛亮も出ない三国志。
なにせ、晋の時代の話である。
乱れた司馬氏の晋に現れた英雄、劉弘祖と石珠。
2人が新たな時代を切り開いていく、という三国演義をなぞった
ストーリーである。
この話、まんざら架空の話でもない。
劉弘祖は匈奴の英雄劉淵のことだし、石珠は石勒の母という設定である。
妖術も飛び交って、演義としても無難である。
もっとも、内容としては三国演義に及ぶべくもないが・・・


☆1つ
中国には著作権が無い為に

昔からベストセラーに

肖ろうと無関係な

続編や姉妹編を

出版している一つです。

三国志演義の続編ではありません。


リンク元:後三国演義


ストーリー解説にある『妖術あり』が非常に気になります。


でも、三国志演義後半でも司馬昭 が枯れた泉から水を噴かせたり、鐘会が心霊体験をして「ゾッとする話」 をしてくれました。

演義に妖術はつきものとひとまず譲っておき、レビュー。


レビューが2つしかなく、☆4と1。
あながち架空の話ではないのが救いですが、☆1のレビューを見ると、三国志演義を読むテンションで読み始めると心を折られてしまうことがよくわかります。


っていうか、三国志じゃないのに三国を名乗るのはどーなんでしょう?



ただ、上記2冊の「晋演義」と比べて、開き直っている感があるので、そこは好感が持てます!



個人的には、中古で197円なので購入してみたいと思います。
アマゾンランキングが上がっていたら、諸葛菜が購入したと思ってください^^;。


三国志演義後半がとても好きな私ですから、多少の打撃を受けても耐えられるでしょう。いや、そもそも高校の頃のようにウブではないので、さらりと読ませてもらいます!



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「秦凉造反」三国時代以降の晋時代に関する本を見っけた!

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どうも!


諸葛菜です!



先日の記事で、両晋演義と東西晋演義がダメダメで結局買う気が失せてしまったことを 書きました。



件のページにはもう一冊晋関連の本が紹介されており、レビューを見る限り随分マシな作品のようです。

その名は『秦凉造反』。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



演義をつけずにシンプル且つわかりやすいタイトル。そして、異民族の犯行であるが如く「造反」という言葉を使っています。



では、レビューを翻訳してみましょう。


レビュー~~~~

東西晋・五湖時代ファンにとっては朗報だ。連環画(絵本劇画)の秦凉造反が発売された。私は好奇心を抑えられず、60元の大枚をはたいてこの本を購入した。晋の時代を描き出した秦凉造反について簡単に書いてみた。
 

この本を手にした時、目を奪われる程の装丁でもなし、どうもぼんやりとした古ボケた雰囲気だった。しかし、持ってみると重厚感があり、古ぼけた歴史の激しい移り変わりを描いた書物であると感じさせてくれる。
 


本を開くと、概要が詳しく書かれており、作者が東西晋に関して詳細に編集したのだろうと思われる。登場人物が多く、詳細な記録があまり残っていないので東西晋の物語を作るのは至難の技である。
 


秦凉造反は良くまとめられているし、作者の努力が感じられ、東西晋の歴史に興味をお持ちの方には満足いただけるものと思う。

 



一つの優秀作品と読んでいいただろう。絵は三国演義などで使われている画風であり親近感を抱ける。東西晋の物語の中では『秦凉造反』は成功例と言えるであろう。晋の武帝司馬炎が曹奐から皇帝の座を奪い、西晋の基を築いた。晋の武帝は自分の政権を過度に維持しようと努めたため、分封制をしき官吏を甘やかし過ぎた。物語の始めの部分では両晋演義の原著と違い、司馬家の軌跡を簡単に説明している。


鮮卑人の樹機能は連年飢饉、災害に襲われたため、朝廷に救いを求めた。


しかし、朝廷は一切この地の民を顧みることはなかった。このため、樹機能は民を糾合して反乱を起こしたのだ。

 




秦凉造反の読者は、物語の中で晋の武将牽弘が殺されたシーンを覚えておいでだろうか?東西晋演義や両晋演義では描かれてはいなかった。牽弘が「殺された」という史料は見当たらない、秦凉造反では仮想の描写が織り込まれている。


「魏志・牽招伝」には一文が書いてあるのみである「271年、北地郡の異民族が金城郡を攻撃し、涼州刺史牽弘は討伐するため出兵した。牽弘は勇猛であるが謀略なく、羌族らにおびき出され青山で包囲されて死亡した」史料には勇ましく戦って死んだとある。

 


史料ではこの戦に関するまとまった史料はなく、どのような戦いで、牽弘自身がどのように敗北し死んだかは書かれていない。
 


しかし、秦凉造反では物語として楽しめるよう仕掛けがしてある。北地郡の異民族北地の狐と呼ばれた劉猛は、小さな集落の頭目にしか過ぎないが、朝廷の大軍と戦い、牽弘を牽制した。
 


秦凉造反の作者は、ただ単に歴史の断片を拾い上げたのではなく、物語として読めるよう設計し、なるべく歴史に沿った形でこの作品を完成させている。


 


幾つか問題点を上げるとすれば、表紙と本文の挿絵に違いがありすぎることである。集落に住む民間人が蜂起したとはいえ、武器が貧弱すぎやしないか?表紙の鮮卑人は金髪である。これには根拠があり、鮮卑族の容貌は金髪碧眼である記載があるのだ。

鮮卑人の血統については謎であり、様々な説がある。バイカル湖周辺のヨーロッパ系、北アジアのモンゴル系またはシベリア系ではないかと言われている。この点からも、表紙の金髪キャラは史料と隔離していない。


~~~


挿絵は三国志絵巻物っぽくて私は好きです。


この絵巻物、どうせ中国のことだから、無料でダウンロード出来るだろうと思っていたら、無料ですべて見れるページは見つかりませんでした。


きっとあるはずなのですが…今度時間のあるときにでも調べてみましょうかね。まあ、しばらくしたらただで見れると思いますけど^^;



ネット上にアップされているページがいくつかあったので上げてみます。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
禿髪樹機能は勇敢で智謀もあった。
三国時代、曹魏の大将トウ艾が蜀を破った時、樹機能は「これに抗しがたし」
と、その軍門に降ったんですね。


懐かしい!


この時代の小説でミスタートウ艾を拝見すると、ものすごく懐かしく感じますw

後ろではためいている魏の旗がなんとも言えない。

そして、トウ艾様の「お人柄の良さ」がにじみ出ている挿絵ですね!!




三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
司馬炎が後宮にかちこみ!?
司馬炎「曹奐出てこい!おらあ~!!」


三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界

三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
曹奐閣下…。
陳留王として放逐されてしまいました^^;
司馬孚様…あなたはやっぱり忠臣だぜっ!




三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
これが指摘されていたシーン



牽弘閣下、喉元に矢が刺さって痛そ~!

無茶やったんでしょうね。おびき出されて、気づいた時にはすでに敵の陣中のど真ん中。


完全に包囲されて、近習の者達も全滅。

なぶり殺しですな。



姜維との戦いでは、自分のネーム入りの旗を掲げただけで笑われたり、戦ったら戦ったですぐに10里後退したりと、ヘボキャラかと思いきや勇猛果敢だったんです。




牽弘はさておき、この『秦凉造反』は面白そうですね!

主役である鮮卑族の樹機能たちの活躍が面白そうです。


晋の話だけれど、この反乱は270~279年までのようですから、かろうじて三国時代ですよね。時代のくくりでは。



異民族の反乱というと、つい最近大魔国の天安門という場所で発生した、車炎上事件が真っ先に思い浮かびます。


個人的に、あの事件はウイグル人たちとは思えないのですが、時の政府は無理矢理事件に仕立て上げて、少数民族の浄化を狙っているようにしか見えません。


反乱や造反という言葉で彼らの行動を決定づけるのは、いつの政府も変わらんですな。



私はこの本を読んでいませんが、樹機能たちが英雄扱いされていたら、この時期だともしかしたら発禁するかもしれませんね、大魔国政府^^;




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禿髪樹機能 三国時代末期の鮮卑の首領!鮮卑の人民は俺が救う!

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どうもっ!


諸葛菜です!


一度、ブログを書くのを再開させると続けて書きたくなるものですね。
かなり不定期になりますが、気の向くままに書かせていただきます^^



さて、最近は晋初であり三国時代末期にスポットを当てていますが、この辺りの時代こそ三国時代末期ファンが知りたいところではないでしょうか。


演義でも書かれていないので、蜀滅亡から呉滅亡までに起こった大小の事件についてなんでもいいから知りたいものです。


先日の記事にも書きましたが、呉滅亡寸前にようやく鎮圧させた禿髪樹機能を首領とする鮮卑が晋と戦いました。


「秦凉造反」三国時代以降の晋時代に関する本を見っけた!

両晋演義、東西晋演義 三国時代の後を描いた本だけれども…?



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
多重残像拳?も使える樹機能様!?



禿髪樹機能についてググってみましたが、wikiには載っていませんでしたし、他のサイトにも概要が載っている程度で詳細は書かれておりませんでした。


中国語サイトには禿髪樹機能に関するまとめがありましたので、こちらをかい摘んで記事を書かせていただきます。




禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)
彼の苗字は禿髪、名前が樹機能です。
鮮卑の部落の首領で、祖父の禿髪寿●(門構えの中に真)が失くなった後、後継者となった。


成長した樹機能は智謀に長けている人物となり、晋の武帝司馬炎の頃、樹機能は270年に晋に対して兵を挙げ、秦州刺史胡烈 、涼州刺史蘇愉を斬り、翌年271年にはその他の異民族と連合して青山に篭もる牽弘 を包囲し打ち破った。



秦凉の挙兵について
鮮卑族は現在の内蒙古自治区アルグン川からシラムレン川あたりに放牧して生計を立てていた。
彼らの部落は繁栄し、日増しに強大となり西へと移動。東漢のはじめには現在の寧夏北部、甘粛省河西に分布していた。


現在の寧夏地区で活動していた鮮卑族には乞伏部、鹿結部、禿髪部という3つの部族に分かれていた。
魏晋の時代、彼らは異民族として蔑視されており時の王朝からは常に圧力を受け、搾取をされていたため、少数民族の間では王朝に対する不満の火が消えたことはなく、一触即発の状態であった。


268~269年の間、隴西地区は連年の大旱魃により、多くの少数民族たちは飢餓にに苦しみ倒れていきましたが、朝廷は一切救済措置を施さないばかりか、高圧的な手段をとった。

新任の秦州刺史胡烈は就任するやいなや、鮮卑族の集落に駐屯。武力でもって彼らを押さえつけようとした。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
少数民族の平和は俺達が守る!


禿髪樹機能による抵抗
自分たちの部族を守るため、禿髪樹機能は鮮卑族たちの多くに推されて武装蜂起軍の首領となった。
270年、禿髪樹機能率いる鮮卑族たちは胡烈の指揮する軍隊と激突。悪戦苦闘の末、ようやく胡烈軍を打ち破り、胡烈はこの戦いで命を落とした。樹機能軍の威勢は高まり、士気は旺盛、勝ちに乗って南下し高平という地区を占領するに至った。司馬炎 は杜預を秦州刺史として派遣し、尚書の石鑒を安西将軍とし、大軍を率いて樹機能討伐にうち立たせた。


しかし、晋、鮮卑の両軍は一年あまり交戦し、官軍は樹機能を打ち破るどころか、寧夏周辺の各少数民族たちの晋への反抗心を高めることとなり、他の部族たちの攻撃にも大いに苦しめられた。
特に戦闘力のあったのが安定郡の北地にある匈奴軍であった。


各地の少数民族を糾合させて金城郡、涼州刺史の牽弘を殺し、北辺の涼州、南の秦州などの戦略的拠点を次々と打ち破り、晋の朝廷を震え上がらせ、司馬炎は心痛のあまり眠ることも食事をすることも出来なかったと言われている。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
樹機能様ウハウハ!
食事の仕方も豪快だっ!



勢力の拡大

275年、樹機能は勢いに乗り金城、涼州に散る各部族たちを吸収した。晋朝は西方の奥地の異民族にまで影響が及ぶのではないかと恐れを抱いていた。277年、鎮西将軍司馬駿、平虜護軍文鴦 らが涼州、秦州、雍州の各州に兵を分けて進軍。樹機能は彼らに包囲攻撃をされ重傷を負い、兵を撤退させた。


278年、樹機能の部将である若羅抜能は再び戦力を整え、鮮卑族、羌族の異民族を集め、大挙して涼州を攻撃した。この戦いでは刺史の楊欣を打ち取り、再び涼州を占領し、晋朝を震え上がらせた。

司馬炎は朝廷の廟議でも、「誰か樹機能を倒せるものはおらんのかあ!」と叫ぶほどであったという。馬隆がその任務を買って出て、樹機能討滅に立ち上がった。


晋との戦いに敗れる
樹機能対馬隆の戦いはこちらで。

馬隆 王凌を弔った義人!鮮卑の鎮圧で功績を上げた良将!


馬隆 part2 鮮卑との戦い!勝利の鍵は磁石にあった!


樹機能の部下であった抜韓、且万能らが1万人の部下とともに降伏した。
彼らはほこを返して樹機能に襲いかかり、混戦の中で樹機能は命を落とした。




禿髪樹機能残念でした!


元をたどれば、漢族王朝の長年の圧政と1年続いた大旱魃による被害を何とかして欲しいと陳情に行っただけで、軍隊を派遣され圧力をかけられた事が武装蜂起の発端。


270年に起こった反乱場所と、現在の東トルキスタンの位置はそう遠くはありません。


1700年以上経ってもやることが変わってないんですね!


穏便な集団での陳情、デモ行進を「少数民族のテロ行為」と決めつけて、武装警察を派遣させて暴力で持って押さえつける時の王朝。


大魔国の方は自分たちの歴史を誇らしげに話しますが、歴史を学ぶことを知らないようですね。もっとしっかりと学んで欲しいところです。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
三国時代とあんまり変わらんw



歴史にIFを持ち込んでしまいますが、禿髪樹機能もあと10年早く挙兵していたなら、蜀の姜維と連携して晋、いや、魏を苦しめることが出来たかも。


当時はトウ艾、鐘会はじめ天才部将他、そこそこ優秀な部将もいましたし、何より司馬昭 という食えない晋王がいましたから、涼州、秦州を取ることは難しかったかもしれませんが、杜預が「相手が勢いに乗じており装備も固く、対して官軍の装備は乏しいことから、春まで進軍を待たなければ十中八九勝算はない」と手を焼くほどでしたから、姜維率いる蜀と連携すれば長安までの道は拓けたかもしれません。


呉も孫皓ではなく孫休 の時代でしたから、蜀と連携して丁奉らを北上させてくれたでしょうし。



そういえば、この時代はまだ呉が青息吐息で存在していましたんですよね。

まあ・・・忠臣、能臣達が相次いで処刑されていましたら、この乱に乗じようとする気概もなかっただろうな^^;


禿髪樹機能の反乱は遅すぎた・・・。
むう…残念だったなあ!


惜しいぜ樹機能!

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後三国演義がやって来た

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どうもっ!


諸葛菜です!


先日の記事でお知らせした晋の時代のお話、後三国演義についてです。


両晋演義、東西晋演義 三国時代の後を描いた本だけれども…?


中古で購入しちゃいました。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
表紙には一角獣に騎乗している石珠様が描かれています。



装丁はなんというか、もっとおどろおどろしいものか、女性が主人公とのことなので、ペンギンくらぶに描かれているような活力のある女性が、胸当てと腰当ての部分以外は非武装地帯な画像を期待していましたが、ご覧のとおり、大人しめのファンタジー系物語を彷彿させてくれる絵ですね。


こちらの紹介文でも「妖術あり」とのことでしたので、天候を変えたり、雷を落としたりするのかと思ったら、どうやらそんなものではなさそうですね。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界





表表紙の裏に、「それからの三国志」とありますが、三国志ではありませんので要注意です。
また、三国時代を舞台に描かれた珍書 でもありません。正確には三国志が終わった後の中国のお話です。


訳者の寺尾善雄先生は、1923年生まれ。東京外国語大学中国語部文学科をご卒業。
岡山日々新聞社、産経新聞社、秋田書店に勤務。1987年にお亡くなりになっています。

『中国故事物語』『漢詩故事物語』などの作品の他、四大奇書の続編のような『水滸後伝』『後西遊記』の後の世界を語っている作品の訳をされています。

後シリーズがお好きなのでしょうか。


私は訳者ではないですが、もし、「どこの馬の骨の中国人が書いたかわからないけど、三国志演義の職滅亡後から三国統一までのトンデモ本があるから訳してみて。お金出すから」と言われた二つ返事で引き受けてしまいます。


呉・三国志の作者であられる伴野朗先生 も東京外国語大学の中国語学科ご卒業でした。
外語大中国語学科卒の方は、三国志の後半にご興味がおありなのでしょうか。諸先生方に負けず東京外国語大学中国語専攻の若いOBの方も、アマゾンランキングや売れる売れないにかかわらず、中国産の三国志後半の地味な時代を書いた小説を片っ端から翻訳してほしいですね(笑




では、まえがきをかい摘んで書いてみましょう。


・「後三国演義」の原本の作者は不明です。
・小説ではあって事実ではありません。

・西晋の中、末期(4世紀初め頃)に兵を起こした石珠、劉弘祖が協力して西晋を打ち破るお話です。

・時代は晋が呉を併呑した後のお話になります。


先程も書きましたが、三国志時代とはほとんど関係ありません。


三国志の参考資料 にすらなりません。


まだ最初の数ページを読んだだけですが、石壁の中から人間が生まれたり、死人の脳みそを喰らう一角獣や、ボール状の肉塊から人間が出てきたり、鬼やバケモノを大量に召喚して一晩で宮殿を作ってしまう道士、幻のような神兵を持っている武の達人。


妖術ありとはいえ、読み始めた早々すでにパラレルワールドが広がっています。

これでは、賈南風の悪知恵なんて絶対に通じませんし、仮に鐘会、トウ艾、羊コ、馬隆が生きていても、いや…諸葛亮孔明の八卦の陣ですら、鬼神の前には一捻りでしょうな…。


まえがきにあるように、「中国古典の独特な判りにくい表現を避け、なるべく平易な文章にした」とのことなので、非常に読みやすい文章となっています。


「まあ、もう夜が明けたの?わたし、バタン、キューで夢さえ見ないくらい、ぐっすりねていたのよ」石珠様


こういった時代小説に登場するアイテムは、なるべくカタカナを避けたいと思うはずですが、惜しげも無く「シャツを脱ぎ捨てた」などきちんと現代語に訳されています^^;



まだ、少ししか読んでいませんが、読みやすいです。本の題名にこだわらず、三国志とは関係のないファンタジーな昔話だと割りきって読めば、奇想天外で面白いかもしれませんね。



石珠様w^o^)丿!


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シェア願いまっす!曹操は夏侯氏とも漢の丞相曹参とも血縁関係が無いことがわかった

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どうもっ!


諸葛菜です。


三国志ファンにとってはビッグニュースです。


まずは転載。



曹操の遺骨、真偽が決着へ…子孫に特有の染色体

読売新聞 11月13日(水)10時31分配信


 【北京=竹内誠一郎】中国紙「新京報」などによると、上海の復旦大学の研究グループが11日、「三国志」の英雄、曹操(155~220年)の子孫の遺伝子染色体を特定したと発表した。

 曹操を巡っては、河南省安陽県で2009年末に発見された陵墓と遺骨について真偽論争が起きたが、DNA鑑定で決着する見通しだという。


 研究グループは09年から、家系図で曹操の子孫とされる曹姓の男性280人などから約1000件のサンプルを採取。絞り込みをかけた結果、一部に共通して非常に珍しい型の染色体を発見。安徽省で出土した曹操の大叔父の歯からも同じ型の染色体が検出されたため、曹操一族に特有の型であると断定した。


 曹操については、漢代の丞相(じょうしょう)、曹参の子孫だったとの説や曹操を支えた夏侯一族の出身だったとの説があった。しかし、今回の結果により、曹操と曹参、夏侯一族とはともに血縁はないことが立証可能という。同大学は今後、今回の研究手法を用い、孔子とその子孫との血縁関係の特定などに取り組むとしている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131113-00000299-yom-sci



血縁関係がなかったのですね。

三国志や三国志演義に関する資料、史料には曹操の血縁関係について書かれていましたが、これは大幅な変更ですな!



夏侯氏の流れを組むとずっと思っておりました。


科学の力によって解明された曹操のDNA。

トウ艾、姜維、鐘会、孫ちんなどの演義後半武将についても何か面白い新発見があればいいなあ~。



曹操様っ!丿!


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劉禅 Part.2 蜀のラスト・エンペラー見事な降伏?

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どうもっ!

諸葛菜ですっ!


劉禅とかまだまだ未完でしたね!

このへんの武将を早く片付けなくちゃっ!


劉禅 蜀のラストエンペラー 謎は全て解けた!


劉禅の前回までの話は魏延 を退治したところまででしたね


孔明死後の三国志演義後半では、絶賛迷走中!蜀の悲劇が間近に迫っても一切現実を直視しようとしない。姜維に北伐をさせっぱなしで、国政を顧みないとっちゃん坊やになってしまいました。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



演義第107回では、夏侯覇 の降伏を受け入れました。


劉禅と夏侯氏は縁続きであると言ってそうとう歓迎したらしいですね。


劉禅の御前で、「夏侯覇を得たのは天の賜物!」と言わんばかりに、姜維が北伐を強行しようとし、それを諌める費褘(ヒイ)

そんなことは俺が考えることではないとばかりに、


「そなたがそれほ魏を打ちたいと申すなら、全力をつくしてやってまいれ。おくれをとって、朕の望みに背くような事はせぬよう」


その後も、姜維は北伐を何度か繰り返し、失敗。


蜀の中散大夫譙周(しょうしゅう)は姜維は北伐、劉禅は酒食に耽っていると仇国論まで書いて批判していたが、劉禅の生活習慣は改まりませんでしたし、姜維からは「腐れ儒者」扱いされてほとんど効果がありませんでした。


呉の孫休 皇帝が孫チン 及び孫ちん一派を粛清した後 、劉禅はこれを祝うために、祝賀の使者を送り、その返礼として呉が薛クを使者を送りました。


孫休より劉禅の様子を聞かれ、薛珝(セツ ウ) は、


「中常侍黄皓が大権をろうし、官僚たちは彼におもねっている。民草は飢えに苦しみ、『燕雀(小人)堂に巣食わば、大廈の焼けるのも知らず』というところで」


と、ざっくり。


孫休も、


「諸葛武侯が生きていればこんなことには・・・」

こんな言葉しか出てきません。


劉禅が政治を黄皓にぶん投げてしまったため 、こうなってしまったんですね。


姜維が珍しく魏のトウ艾相手に優位に戦いを進め、祁山にトウ艾を取り囲み、コーナーギリギリまで追い詰めていた時のこと。

魏は蜀軍を撤退させるために、黄皓へ賄賂を送り、劉禅に詔を発せさせ、蜀の姜維を撤退させる計略を発動。

姜維からも何故撤退を命じられたのかと理由を訪ねましたが、


「朕は、そなたが辺境に出陣して久しくなるゆえ、兵士たちが疲れはせぬかと思ったら引き返すよう命じたのじゃ。他意があったわけではない」


姜維との関係もギクシャクし始め、262年、姜維が再び懲りずに北伐をしたいと名乗りをあげました。


ショウ周が反対しましたが、劉禅は、


「ひとまず出陣させてみて、もし失態があったらすぐに呼び戻そう」


と、相変わらず、「とりあえずやってみたら」というスタンスで、この国家を左右する事業にGO!の決裁を押してしまいました…。


姜維 、黄皓に言われたことをそのまま「ウンウン」と返事をし、彼らに物事を任せてしまうのが劉禅くんの懐の深さ!民草の痛み、前線の兵士の気持ちなんて、ぽっくんにはわからんのでしょう。




そんな劉禅ですが、時には怖い男に変貌することもあります。

大臣の劉琰(リュウエンの妻 は生まれつき美しく、皇后に呼ばれ、後宮で1月過ごしてしまいました。
劉エンはこれに激怒。妻が劉禅と私通したと疑い、兵士たち一人ひとりに靴で妻を殴るよう指示しました。

劉禅は劉エンを捉えて打首。


劉禅が本当に劉エンの奥さんと寝ていたのかわかりませんが、この時は淫乱の所業多く、みんなから恨まれていたと、演義に書いてありました。


演義第117回では、魏の軍勢が本格的に蜀の国境を打ち破り、砦も次々と陥落。

が、劉禅は巫女の言葉を信じきっていたため、危機感はゼロっ!!


重要拠点も落とされてしまい、劉禅は諸葛亮の息子諸葛瞻に泣きつきます。


トウ艾 の軍勢がすでにフ城に入り、成都もいつ破られるかわからぬ有り様じゃ。先帝陛下のご恩義を思って、朕の命を守ってくれい!」


病気と言って引きこもっていた諸葛瞻 に泣きつき、恩着せがましく、『先帝陛下が』と、自分に徳がないことを知って親の七光りを使って、かつての功臣の息子を口説く劉禅。。。



嗚呼成都。。。



結局、諸葛瞻も破れ、成都も陥落してしまうのですが、降伏か徹底抗戦か、それとも南蛮へ逃げるかを話し合いました。

息子の劉諶 (リュウジン)は徹底抗戦を叫びましたが、



「大臣たちはみな降参するがよいと申しておる。そなた一人、血気の勇にはやって、城内を血の海にする気かっ!」


劉諶はなおも反論しますが、言葉に詰まった劉禅は、


「そなたのような青二才に天の時がわかるかっ!」


と、一喝。


これで蜀の運命は決まりました。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



平和を愛する劉禅…。


姜維 の反抗も失敗に終わり、劉禅の無事を知った霍弋も魏に帰順。


劉禅は、司馬昭より国政を乱した張本人と言われ、処刑されそうになりましたが、降参してきた者を殺すのはいかんと文武百官に諭され、安楽公という魏の捨扶持をもらいました。


宴席での話はあまりにも有名です。


とある宴席で蜀の音楽が流れると、蜀の旧臣たちはハラハラ泣いているのに、劉禅一人はご満悦。


「蜀が懐かしいでござろうな」


と、いわれれば、



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


「ここが楽しいので蜀のことなぞ思いもいたさぬ」


これには一同唖然。


見るに見かねて郤正 先生が、『祖先の墳墓が、遠い蜀にあるゆえ、西のことばかり悲しく思いだされて、一日として思わぬ日はござらぬ』と答えるように指導。


司馬昭はまた、


「蜀が懐かしいでござろうな」


と、聞かれ、ゲキ生先生に言われた通りの言葉で答えました。


郤正 の言葉にそっくりでござるなw」


「いかにもさようでござる^^;」


と、司馬昭他群臣達は大爆笑。


司馬昭は劉禅に対して、警戒心を抱くことはありませんでした。


このエピソードは、本当に劉禅がお人好しの愚直な皇帝であったこと。
もしくは、わざとピエロのふりをして警戒心を抱かせず、結果的に蜀の旧臣他自分の一族を守ったと、最高の保身術であったとも言われていますね。


確かに、旧皇帝をぶらぶらさせておくことは危険この上ないし、いくらアホとは言え、多少なりとも警戒されるはずです。もし、劉禅が宴席において、まともな返答をしていたら、蜀の旧臣たちも「蜀復活の灯火は消えていない」と、妙な運動を始めるかもしれません。


そうなると反乱は起きるし、周囲の警戒も強まることになる…。一族と旧臣たちの身を守った…ともとれる言動ですね。


劉禅の行動を巡る議論については他のサイトさんでも行われていますので、気になる人はググッて調べるか、書籍で調べてみるとよいでしょう。



劉禅!!


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司馬昭 最終回 わが生涯に一片の悔い無し!

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どうもっ!


諸葛菜ですっ!


司馬昭の続編です。


司馬昭 父司馬懿、兄司馬師の跡をついて覇道をゆくっ!


司馬昭 part2 反乱鎮圧!朝廷席巻!俺の前にはペンペン草も生えさせねえぜ!



賈充は姜維を殺してしまえば蜀は落ちたも同然。智勇兼備の人間を選んで暗殺者として差し向けろと提案します。


荀勗は、劉禅と黄皓に蝕まれているから、然るべき大将を選んで兵を持って攻め取るべきと主張しました。



結果、蜀討伐の軍が起こるわけですが、賈充ってあまり軍を動かすのを嫌いますよね。
前回も蜀を攻めようとしたら、曹髦をなんとかしてからと、引っ張ったり、後に呉の討伐にも反対します。
きっと政治的な事情があったのでしょう。


蜀を攻めることを朝臣たちに伝えた際、前将軍鄧敦 (トウトン)が反対したので、此奴を血祭にあげました。
半ば生贄に近い形ですが、これを見て他の大臣たちは肝を冷やす…。



さて、蜀攻めには鐘会とトウ艾を抜擢。


いざ、出陣という時に、配下の邵悌 より、野心家の鐘会に10万以上の兵士を持たせるのは危険ではないかと指摘されましたが、司馬昭様は賢いお方。全てお見通しです。


「そのくらい、わしはとうに承知しておる」


朝臣たちは蜀を討つことに尻込みしている状態だが、鐘会一人は自ら進んで蜀をうつ計画を立てており、いささかも怯んでいないから。怯みを感じていなければ蜀を破ることが出来る。
一度敗北した者は肝を潰しているので、二度と逆らうことはないし、魏の兵士たちは勝利の後は一刻も早く家に帰りたいと思うはず。

いくら鐘会が謀反を企てようとも、それに加担するものはいないだろう・・・という考えです。


鐘会・トウ艾は蜀を破り、劉禅を降伏させました。


成都を占領したトウ艾は、軍勢を蜀に留めて、兵を養い、軍船を製造し、呉を平定するための軍備を整えると同時に、呉の皇帝孫休を安心させるため劉禅を扶風王に封じるよう主張しました。


この上奏文を見た司馬昭は、トウ艾が蜀を我がものとする魂胆であると疑い、「何事も朝廷の指示に従うよう」監軍の衛カンに親書を持たせ指示をしました。


ところが、朝廷内ではトウ艾が謀反を企んでいるという評判が高まり、司馬昭はますます不安をつのらせました。


鐘会を位につけトウ艾を牽制し、且つ、監軍の衛瓘(衛カン) に両者を見張らせます。


鐘会は姜維に入れ知恵され、トウ艾の上奏文を携えた使者を拉致し、上奏文を無礼な文に書き直して上奏。
これを見た司馬昭は、鐘会にトウ艾を捉えるように命じ、自らは曹奐を伴い、軍勢を引き連れて蜀をうち平らげに出発しました。


この時、邵悌が自らご出陣遊ばれるのはいかがなものか?と、諌めていますが、誰かを差し向ければ、その人を疑うことになるので、自ら長安まで出陣しました。



「鐘会の軍勢は、トウ艾の六倍もあることゆえ、彼に命じてトウ艾を捕らえさせればことたりましょう。殿が直々にご出馬なされる要はないと存じますが」


司馬昭は笑って、
トウ艾のためではなく、鐘会の謀反を牽制するために出陣するのであることを述べました。


邵悌も笑って、
「それがしは、殿がお忘れではないかと思って、お伺いしたのでござります。そうとあらば、固く秘して、決して外にはおもらしになりませぬよう」




トウ艾、姜維、鐘会の2英雄+1は全員死亡。


姜維 最終章 トウ艾をシバイて鐘会とともに爆ぜる


蜀は無事に魏となりました。


平定後は、一度は賄賂で命を長らえた黄皓 を処刑し、劉禅をいびったりと大忙しの司馬昭。


司馬昭は、兄の司馬師 、父司馬懿 に王を諡(おくりな)しました。
世継ぎを決めるにあたっては、「天下は兄者(司馬師)の者だ」と言って、実子であるが兄の跡継ぎであった司馬攸を嗣子にしようとしますが、兄をさしおいて弟を取るのは不吉であると重臣たちから諌められてしまいました。

結局後を継いだのは司馬炎。


蜀を平定し、跡継ぎを決めた司馬昭。
やることはすべてやったと思ったら、案の定、急に口が聞けなくなり体調が悪化。
今際の際に、太子である司馬炎を指さして死去。


やることはやりました。悔いはないでしょうな。。。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


以上で、司馬昭の物語は終了。



司馬昭最高

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トウ艾 part.3 戦う前から死亡フラグでボロボロ。それでも前進あるのみじゃ!

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どうもっ!


諸葛菜です!


トウ艾もまだ仕上げていなかったっ!


トウ艾 part1 魏の名将にして忠臣 カン丘倹鎮圧、蜀漢滅亡に大貢献!


トウ艾 part2 姜維軍を手玉に取り、魏のスーパーエースに!


三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
雑草魂なめんなよっ!(゚д゚)



トウ艾と姜維の戦いについては、姜維の記事でたくさん書いてしまったので余り書くことがありません^^;


その代わりと言ってはなんですが、トウ艾に関するよもやま話を記事にしましたのでこちらをご参考に^^;


中国人の鄧艾(トウ艾)将軍への評価をざっと書いてみた

鄧艾・鄧忠(トウ艾・トウ忠)の墓 



さて、トウ艾は蜀の成都を陥落させるのですが、何度か危ない目にも遭っています。


姜維が再び北上してきた際、王瓘(オウカン) の提案により、「詰めの甘い、見え透いた埋伏の毒」の実行許可を出してしまい、思わぬしっぺ返しを喰らっています。


オウカンも死に物狂いで暴れ回りましたが、結局失敗。

トウ艾も王瓘(オウカン) の計が成功したものと見て突撃をしてしまったため、見事に罠にハマってしまいました。


傅僉(フセン) に「下郎、トウ艾。もはや我らの大将の計に落ちたぞ!いさぎよく馬を降りて死ね!」と、罵られたり、「トウ艾を殺したものには賞金千金、万戸の侯に封じてやるぞ」と言われて、鎧兜を棄てて遁走。


手傷を追いながら退却。


上奏文を奉って司馬昭に対して、自分の官位を落としてもらいたいことを訴えましたが、司馬昭は彼は大功を数々立ててきたので、逆に恩賞を与えました。


トウ艾はこれを受け取るに忍びず、賜ったもの全てを戦死した兵士の家族に与えました。


責任感のある大将です。
自分の責任を追求されるのを恐れ、自分の部下を片っ端から殺す司令官 や、捕虜の数を水増しして手柄を立てたように見せるゴロツキ将軍 とは格が違います。


その後も、姜維の作戦を逆手に取り、空城の計を用いて夏侯覇を戦死 させています(演義では)。


第116回で、ついに蜀へ出兵となりますが、トウ艾は鬱々として気分が乗りません。
よっぽど迷っていたのか、易に詳しい部下の緩劭 (カンショウ)から、「蜀を破っても、帰還することはできますまい」と、死亡フラグを刺されてしまいました。


気分が悪いのに、これではあんまりです。


さらに、宮廷に詰めている劉寔(リュウショク) は、「二度と都にもどれまい」と、ニヤニヤ笑いながら言われてしまいました。


羅貫中とモブ文官にトドメを刺された状態で出陣。



部下の諸葛緒が姜維にボコられ、鐘会軍の陣営に退却したところ、トウ艾の許可も得ずに鐘会は諸葛緒を囚人車に押し込み洛陽へ護送。


出だしから躓いています。


鐘会が正面突破を試み、剣閣で手こずっている間にトウ艾は陰平の険阻な山々を越えて成都になだれ込もうと計画しました。


トウ艾は息子のトウ忠 、部下の 師纂 (シサン)を連れて山越えを行いました。

途中、石碑を発見し、そこには「諸葛武侯題す」とあり、「二火初めて興り、人有りてここを越ゆ。二士衡(優劣)を争い、久しからずして自ずから死せん」と・・・。


3度めの死亡フラグ・・・。


もう、引き返すことはできません。
どうせ死亡フラグを刺されているのなら、前進あるのみです。


諸葛亮在世のみぎり・・・この場所には1000人の兵士が守備を固めていましたが、劉禅は彼らを引き揚げさせておりました。


もし、ここに兵が配備されていたら…トウ艾軍は全滅していたことでしょう。

改めて、諸葛亮孔明の恐ろしさを実感し、ゾッとするトウ艾。


「我らはここまで来たものの、もはや退く道はない!前の江油城には十分な兵糧があるっ!進めば生きることができるが、退けば死あるのみじゃ。力の限り攻め立てよ!」


江油城の城主は馬邈(ババク) 様w


城を降伏させたトウ艾は更に前進。

諸葛瞻、諸葛尚親子との対戦ですっ!


三国志


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杜預 三国時代末期の晋の英雄 破竹の勢いの故事成語

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どうもっ!


諸葛菜ですっ!


今回は杜預。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



杜預を書かなければと思っていたものの、演義では活躍したと思ったらすぐに三国志演義が終了してしまったので、彼に好感を持つ暇もありませんでした。

杜預の『左伝癖』についての説明。※春秋伝が好きで、外出する時も必ず共のものに、左伝を馬前に捧げさせた。

鎮南大将軍となって、長江を下り、呉軍を撃破しました。


伍延、陸景、孫キンを瞬く間に粉砕。


自分から先陣をきって、敵将を打ち取るわけではありませんが、部下の周旨を上手く使うなど用兵に長けていましたね。

胡奮から、冬の来るのを待って建業攻略をするのは如何?


と、問われましたが、破竹の勢いで攻め破れば良しと、速攻で呉軍をやっつけてしまいました。


以上で演義での活躍は終了です。


wikiを調べてみたら…なんとまあ、充実しています!

略歴の冒頭部分を見てみると、時の支配者司馬懿様と折り合いが相当悪いという、魏で生きていくにはある意味「詰み」の状態でしたが、司馬昭が司馬家の当主となると運が上向き始めました。


司馬昭は曹奐にトドメを指すようなこともしなかったし、逆らった文欽も殺すこともしませんでしたし、割りと寛容な部分がありますね。もちろん政治的な目的があったのでしょうけど。普通の友達としてなら、そんなに悪く無い奴なのかなと、甘い諸葛菜は思ってしまいました。


それと、トウ艾を尊敬していたようで、


また鄧艾を尊敬していたため、鄧艾を殺した衛瓘田続 らを厳しく非難している。

とのこと。

悪行超人なのに天寿は全うしたんだよなあ…この二人。

トウ艾 part.3 戦う前から死亡フラグでボロボロ。それでも前進あるのみじゃ!


石鍳さんとは折り合いが悪く、時々衝突していました。

泰始年間(265年 - 275年)、官吏の貶降と昇進について下問を受けると、次のように述べた。「上古聖代であれば、功績は本人が黙っていても広く詳しく伝わったようです。しかし、今は違います。遠方のことについて、詳しく知ることはできません。人々は心を疑う代わりに耳目を信じ、耳目を疑う代わりに文書を信じます。文書はいよいよ多く、それに従って官による偽造もますます増えます。


法令は煩雑になり、文章が飾り立てられるばかりです。優劣を挙げるとすれば、各々監査する官を設けるに越したことはありません。毎年、人望や評判の高い人物に優を一つ、評判の悪い者には劣を一つ加えます。六年して、最も優の多い者は抜擢し、劣ばかりならクビにするのです。優が多めで劣が少ないならそれなりに昇格させ、劣が多めで優が少ないものは左遷します。」    


この上奏を遺憾とした司隷校尉の石鍳は、杜預の職を免じた。



その頃、異民族が隴右に来襲し、杜預は安西軍司として派遣され、長安で秦州刺史・東羌校尉・軽車将軍・仮節を授けられた。安西将軍となった石鍳は、敵の勢いが盛んであるのに、杜預へ出撃を命じた。杜預は、相手が勢いに乗じており装備も固く、対して官軍の装備は乏しいことから、春まで進軍を待たなければ十中八九勝算はないと言った。


石鍳は激怒して「杜預は恣に城門や官舎を飾りつけている」と上奏したため、杜預は檻車に収監の上で護送されてしまった。杜預の処遇について議は長引いたが、杜預夫人が武帝の叔母であることから、爵位で罪を贖うということで決着が付いた。


その後、隴右の情勢は杜預の言葉通りとなり、朝廷では杜預が戦略に明るいと評判になった。 やがて匈奴の劉猛が叛き、并州以西や河東・平陽に威を及ぼすと、杜預は度支尚書に任命されて支援対策に当たった。彼は新兵器を開発させる一方、常平倉の設置や穀物の一定買取、塩の定期輸送で農政を安定させ、その上で税制を整えた。


これによって、内外五十余条の地域を救済した。ところが、石鍳の論功行賞が不誠実であるのを糾弾したことから激しい口論となり、杜預と石鍳の両名とも免職され、散侯(爵位はあるが官職がない貴族)となった。


異民族は例の禿髪樹機能達です。

禿髪樹機能 三国時代末期の鮮卑の首領!鮮卑の人民は俺が救う!


呉を討伐した後も彼は謙虚に、かつ、礼儀正しく生きてきたようです。

凱旋後、杜預はその功績によって当陽県侯に昇格し、食邑は9600戸に及んだ。杜預は「私の家は、代々、官吏の家です。武功は功績になりません」と辞退しようとしたが、許されなかった。 その後も江夏・漢口の経営にあたり、住民に大変慕われて「杜父」と呼ばれ、江南では「後世、杜翁に由って叛くこと無かれ。孰れも智名と勇功を識る」と謳われた。


杜預は後世に名を残すことを願っており、常に「高岸を谷と為し、深谷を陵と為さん」と言っていた。そして、自分の勲績を刻んだ碑を二つ造らせ、一つは万山の下へ沈め、もう一つを峴山の上に立てた。一方、大功を立てた身として、気をつけなければならなかった。彼がしばしば洛中の貴族要人を饗応するので、人が理由を問うたとき、杜預は「彼らの恨みをかって危害を加えられないためだ」と答えたという。


その後、司隷校尉に任じられたが、63歳で死去した。武帝によって、征南大将軍・開府儀同三司を追贈され、「成」と諡された。『晋書』杜預伝は、その人となりを約して「交わりを結び物を接するに、恭にして礼有り。問うに隠す所無く、人を晦するに倦まず。事において敏にして、言において慎たり」と伝える。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E9%A0%90


もう、wikiでスッキリとまとめられているので、これ以上いじりようがないですね!


チャイナサイトでも覗いて変わったことが書いてあれば、今度訳してアップしたいと思います^^;



おつかれ!杜預!

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山東省泰山へ出張 PM2.5の雲海は壮観だねっ!

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どうもっ!


諸葛菜ですっ!



チャイナへ出張に行ってまいりました。
全く…日中関係が悪化する中、中国くんだりまで出張に行ったもんですw


昨年は西安を訪問。


五丈原諸葛亮博物館へ行ってきた~!西安から高速道路で…五丈原へ


五丈原諸葛亮博物館 part2 いよいよ武将の像が…


五丈原諸葛亮博物館 part3 ついに諸葛亮像、黄月英が登場!



五丈原諸葛亮博物館 part4 八卦陣・博物館へ


五丈原諸葛亮博物館 Part5  諸葛亮の発明品と土産品




防空識別圏ネタで大盛り上がりの中国は、テレビのどのチャンネルを回しても日本とアメリカの「挑発的な態度」に業を煮やす報道ばかり。


自分でちょっかい出しておいて、いったい何が挑発的なんでしょうね。


国内問題がが山積みなので、例のごとく敵国とみなしている日本へ熱い視線を注いでくれています。

アメリカの反応に驚いた中国、アメリカの動きは予想外だったのでしょうか、矛先が日本だけになっていますw



こんな番組ばかりなので、チャンネルを回していると格闘技番組を放送していました。


「功夫争覇杯」という番組。日本の総合格闘技のプライド、または修斗をパクったと思われる番組でした。

打投極三拍子揃っている格闘技で、ブラジリアン柔術をかじった選手たちが活躍していました。


選手の格闘技歴はわかりませんが、中国レスリング(柔道とレスリングを足して3で割ったような格闘技)、ボクシング、キックボクシング出身者が多かったですね。

とりあえず、多少総合のことは知っているのか、タックルを切る程度のことはできていました。

でも、ブラジリアン柔術を身につけていない選手は転がされると、DVD教本のようなバックからチョークスリーパー。

基礎練習通りの下からの三角絞め。

ガードポジションの上から不用心なパンチを連打しようとして、あっさりと腕ひしぎ逆十字がためを喰らってしまう選手が沢山いました。



すいません、これ以上書くと格闘技ブログになってしまうのでこのへんでw

格闘技が好きなんですw

三国志の話じゃないけど…柔道の試合に参加しました。柔術選手です



さて、中国は山東省泰安市へ行ってまいりました。


泰山は中国5大山の一つですし、北斗の拳の雑魚キャラも泰山流拳法を使う輩がいたので、日本でも少しは有名な山だと思います。


最低気温はマイナス5度とのことでした。日中はかろうじて1,2度ありましたけど、市内でこの有り様でしたから、泰山の頂上付近はとても寒かったですね。

残念ながら、カメラを持って行かなかったため写真を掲載できません・・・ごめんなさい。

市内から見る中国の空というのはどんよりとしており、雲というか霧というか・・・スモッグでしょうな、そう、PM2.5。


Pm2.5に覆われているので、とにかく、視界が悪い。


でも、泰山山頂は空気が住んでいて、山の下を見るとスモッグに覆われた市内を一望出来ました。雲が覆っているように見えましたが、実はスモッグだったんです。



雲海じゃなくてスモッグ海。


『風の谷のナウシカ』で、ナウシカが自宅で綺麗な土壌を使って腐海の木々を育てていましたが、そこで育つ腐海の木々は全くの無毒。


「汚れているのは土なんです」


と、ユパさまに言っていました。


この国では、土ももちろんなのでしょうが、


「穢れているのは人なんですっ!」


現代版の腐海と言っていいくらいの眺めでしたね。



仕事が忙しくて全然観光ができませんでした。
ロープウェイで山を登っただけでした。


留学時代は歩いて登ったんですけどね~。
膝がガクガクブルブル状態になりながら、急で狭い石段を登って行きましたよ…。


三国志演義後半では、すでに魏の領土になっていたし、泰山周辺では戦乱は無かったと思います。前半ではあのあたりは戦乱地でしたけど・・・前半はあまり覚えていないなあ…。


コーエーの三国志シミュレーションゲームだと、どの辺になるんだろう?
泰安じゃないけど、渤海あたりで人材捜索をすると太史慈が見つかったような^^;


泰山は学生時代に登った懐かしい山ということで、ついつい登ってしまったけれど、どうせなら車で片道1時間の曲阜に行って、孔子の生まれ故郷を見ればよかった^^;




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三国志と関係ねえ!

石鑑 杜預の上司として鮮卑の乱にあたった晋の大臣

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どうもっ!


諸葛菜です!

石鑑という人物をご存知ですかな?



「あ~、西晋演義や秦凉造反に出てくる杜預の上司だろう?」



と、思った方、詳しいですねえ~!



偉そうに書いているわたくしですが、晋や鮮卑の反乱あたりの時代については完全ににわか知識しかありませんw


先日、杜預禿髪樹機能に関する記事 を書きましたが、その中でちょこちょこ登場したのが石鑑でした。


チャイナサイトに書いてありましたので、ご紹介します。


石鑑、字は林伯。214年-294年。

出身身分は低かったが、志は高く公明な人物であり、魏の時代は并州刺史、仮節、護匈奴中郎将を務めた。司馬炎が晋を立てた後は、司隷校尉、鎮南将軍を歴任した。しかし、任期中に2回ほど戦績を偽って報告したため、免官された。しばらくした後、司隷校尉に復帰、右光禄大夫、大尉などを歴任した。294年に病没。



異民族戦線での石鑑様


禿髪樹機能たちが反乱し、凉、秦の両州の地域がことごとく陥落していくなか、朝廷は石鑑を隴右の都督として派遣した。現場でどんな活躍をしたのかわかりませんが、論功行賞を偽って(過大評価か?W)朝廷に報告。ここで一度免官されています。


その後、鎮南将軍、豫州刺史を務めましたが、呉との戦いでも「敵軍の首級の数を多めに報告」してしまったことがバレてしまいました。


それを知った司馬炎はもちろん激怒しました。

打ちとった数を偽って朝廷に報告することは大罪であり、そのような者は死刑になってもおかしくない。
鮮卑との戦いで、負け戦を勝ち戦として偽の報告をしたため、一度は免官にしたが、石鑑を信頼してもう一度重職につけた。にも関わらず、今回も同じように朝廷を欺くとは…


と、司馬炎もお怒りになりました。




そりゃあ・・・怒るわな^^;



結局免官されて放逐されますが、また復帰するんですよね、この人w


290年、司馬炎が亡くなってから、石鑑は張邵とともに武帝陵墓を修繕した。
当時、汝南王司馬亮は大傅の楊俊を恨んでおり、葬式にこなかった(兵を率いて場外に駐屯していた)。

司馬亮が兵を挙げて楊俊を討とうとすると伝え聞いたたため、楊俊は怯え始め、楊太后に晋の恵帝司馬衷より詔を出すようお願いし、石鑑と張邵の手勢を以って司馬亮を討とうとした。


張邵は楊俊の外甥である。そこで、兵を率いて早く出発するよう石鑑に催促をした。
石鑑は動ずることなく、軽挙妄動を慎み、人を派遣して司馬亮の動静を探ることとした。

司馬亮はすでに他の道から許昌に帰ろうとしていたため、楊俊は追撃を中止した。
石鑑の冷静な対応は人々から称賛され、武帝陵が完成した後、昌安県侯に封じられた。



と、最後は年寄りらしく、経験を活かして冷静な対処をとり評価されましたが、往年の頃、部下の杜預にまで糾弾されていたのですね!


安西将軍となった石鍳は、敵の勢いが盛んであるのに、杜預へ出撃を命じた。杜預は、相手が勢いに乗じており装備も固く、対して官軍の装備は乏しいことから、春まで進軍を待たなければ十中八九勝算はないと言った。石鍳は激怒して「杜預は恣に城門や官舎を飾りつけている」と上奏したため、杜預は檻車に収監の上で護送されてしまった。

石鍳の論功行賞が不誠実であるのを杜預より糾弾され、激しい口論となり、杜預と石鍳の両名とも免職され、散侯(爵位はあるが官職がない貴族)となった。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E9%A0%90




三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
このいじわるそうな面構えっ!
杜預の顔もうんざりしてますな。




バカ上司の元ではやってられるかっ!

と言わんばかりの口論が行われたようです。


首級を水増しして、自分の功を多とした武将は過去にもいましたね。

文欽というおじ様でしたが、彼の場合、捕虜の水増し報告やその他素行が相当悪かったのに、目上の方や、時の支配者、時の人(曹爽)には上手く媚び売っていたので世渡りは上手でした。


文欽は気が荒く、礼節を弁えぬ性格のため人望が無い。


いずれの任地でも傲慢で、上司を馬鹿にしたり、法に従わないので周囲から憎まれていた。


このことでいつも弾劾の上奏を受けたが、曹叡はこれを抑えてやった。


文欽は、貪欲残忍さを取り上げられて、弾劾され中央に召し返された。


中央に戻ってから、曹爽に厚遇され、再び任地に戻ったが、ますます付け上がった。


中央に対し、捕虜数や戦功を水増し報告したり。


文欽 ノリがいいだけの漢じゃない!司馬一族に2度逆らった義士


まあ、文欽は時の人に逆らって反乱を企てたこともありますけど・・・。



何時の時代にも文欽や石鑑のような輩はいるんですな。




石鑑!

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三国志後半武将人物名鑑

文鴦の評価が中国ではかなり上がってきている?!

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どうもっ!


諸葛菜ですっ!



中国のサイトを覗いてみると、文鴦がやたらと高評価です。

もちろん、日本の三国志ファンにとって、いや、文鴦を知っている人なら、悪くない武将として印象に残っていますし、武力も有り、つい最近は三國無双7にも登場して人気と知名度が一気に上がったのではないでしょうか。



三國無双7の文鴦、かっこいいですよね。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
三国時代に舞い降りた白銀聖闘士のようです。




三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
「ほう。文欽には過ぎた息子だな」
司馬師もさり気に文欽へジャブを入れています


三国志演義における文鴦の活躍については以前書いたとおりです。


文鴦 part1 蜀の趙雲に匹敵する武勇。そして、悲劇の猛将…!

文鴦 part2 蜀の趙雲に匹敵する武勇。そして、悲劇の猛将…!



その後は晋に仕え、優秀な武人としてその腕をふるいました。

270年、呉が腐臭を放ちまくっている時代。鮮卑の禿髪樹機能 が涼州で蜂起し、晋打倒を目指し立ち上がりました。


この勢いは支えきれず、現地で防戦にあたった武将胡烈、蘇愉、牽弘、楊欣らが相次いで戦死してしまったので、司馬炎は夜も安心して眠れないほどに。
そこで立ち上がったのが文鴦。秦、涼、雍州の三軍を集結させて、禿髪樹機能を敗走させ、20万人の捕虜を得ました。


277年、これにより、文鴦の威名は再び天下に鳴り響きました。


この後、馬隆も討伐に行っているんですよね。どうして文鴦は行かなかったんだろ?


馬隆 王凌を弔った義人!鮮卑の鎮圧で功績を上げた良将!


馬隆 part2 鮮卑との戦い!勝利の鍵は磁石にあった!


とにかく、文鴦の職位も上昇したのですが、司馬炎と面会した際、司馬炎からは気に入られず、口実をつけられて免官させられたそうです…。


司馬炎が崩御、恵帝司馬衷が即位した後は、賈南風が政権を握り、太傅楊俊が朝政を握っていた。このため、汝南王司馬亮、楚王司馬瑋が立ち上がり楊俊一派を誅殺。

東安王司馬繇が諸葛誕の外孫であったため、以前、文鴦が諸葛誕に歯向かった事を根に持ち、文鴦は楊俊の一派であったと誣告した。


文鴦はこの誣告により一族を根絶やしにされてしまったのでした。




さて、中国サイトでは文鴦が人気です。

三国志演義では無双ぶりを発揮して趙雲に比べられたりと三国志後半の数少ない超武闘派です。

趙雲だけでなく、中国サイトでは呂布や関羽、張飛などと比べられています。
ほとんどがどこかのサイトのコピペばかりなので、ろくなのはありませんでしたが、あげてみます。



~~~~~~~~~~


三国志演義で、猛将趙雲は長坂坡の戦いにおいて50名の曹操軍の武将たちと戦った。しかし、大半は一騎打ちであったし、最後は張飛にバトンタッチしている。文鴦は夜通し戦った後、武勇に優れたトウ艾と50合以上戦い、最後は数百人の魏の武将たちの追撃を追い返した。しかも、武将たちとの戦いは一騎打ちではなく、1対多であったのだ!

「ネズミども!命が惜しくないのかっ!」の一喝で腰を砕いたし。


長坂坡の曹操軍は5000騎程度だったが、この中に50名の名将がいたのだろうか?

淮南を平定するために司馬師が連れてきたのは40万の大軍である。どの時代にも武勇、智謀に長けた武将はいるものだが、それを発揮するのは戦場しか無い。三国後期は、武将、官吏は世襲化してきたため、武人として功を立てるために、必死になっているものが多かったはずだ。


だから、文鴦を追っていた者達は手練であることに加え、功名心にはやりまくりな連中だった。武将一人ひとりの戦闘力も長坂坡の時よりも高かったのではないだろうか。


一騎打ちだけでなく、一度に大勢を相手にし、趙雲のように逃げたのではなく文鴦はヤル気満々だった。


しかし、趙雲は子供を抱いていたのでそこは考えて上げる必要はあるけど。


~~~~~~~


まあ、趙雲と比べていちいちあーだこーだと言うことも無いと思いますが、中国での文鴦人気は、今後、三國無双シリーズが出る度に人気が増していきそうですね。


ほかのサイトでは、呂布、典韋よりも強いだとか、スタミナFullの状態でトウ艾と戦っていたら、トウ艾を瞬殺していた、などと言われています。


演義は創作なので、解釈が思いのまま・・・というのも魅力の一つです。


とにかく、演義での文鴦の強さ以外に、そのスタミナは驚嘆ですなっ!


私も文鴦は大好きです^^;!


三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
単騎で武将たちを退ける!



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文鴦よ、永遠に・・・



三国志を知るためのおすすめ書籍…と参考文献リスト

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どうもっ!


諸葛菜です!


この三国志演義後半の武将ブログを書くに当たり、様々な文献やネット情報を参考にさせていただきました。
三国志演義と言いつつ、ちゃっかりどこか、ガッツリ正史キャラも書いたりしていますけどね^^;


三国志と言っても、漫画、小説、映画、DVDなど様々な媒体があり、また、同名の小説もたくさんあるので、どれから手を付けていいかわからないという人もいるのではないでしょうか。

今更三国志関連の書籍を紹介するのかよと思われるかもしれませんが、私が参考にさせて貰った文献をひと通りご紹介させていただきます。


三国志演義最終巻 羅貫中
これはこちらの記事で詳しく書いておりますので飛んでくださいw

三国志正史と三国志演義の違い 三国志初心者の教科書選びは慎重に(汗)!

三国志と言ったら吉川英治か横山光輝かという人がほとんどですが、淡々とかつ、速いテンポで進められていく三国志演義、上記2冊と比べると変わったインパクトが有ります。


特に、私が主に参考にした三国志演義文庫版8巻では、新しく登場した武将たちによってに、楽進の子楽チン 、許チョの子許儀 などの名将のご子息様方が、まるでゴミのように斬り捨てられていくのがショッキングでした。


これはちょっと違いますが…

三国志(三国志演義)の挿絵がかなりぶっ飛んでいた


横山光輝三国志60巻
このブログを書くにあたって参考にしたのは、59巻、60巻でした。


中学生の頃、三国志40巻あたりまで読んだのですが、読み疲れてきたので、結局最後はどうなったんだよと、蜀末期が気になって60巻へワープ。

孔明が死ぬのはわかっていましたが、孔明が死んだらハッキリ言って「ドン詰み」。

白旗上げるのも時間の問題と思っていましたが、30年、姜維はじめ武闘派達が頑張ってくれたのをここで知りました。

姜維のスタンドプレー、劉禅の堕落っぷりによって滅んだことが短い話数でコンパクトにまとめられています。


私の好きな公孫淵大王も1ページだけ登場しています。






感動するシーンは、姜維が泣く泣く降伏を受け入れ、彼とその部下が剣を岩に叩きつけて折るシーン。
劉シンが父親の劉禅に徹底抗戦を求めた時に、蜀の五虎将軍と劉備、諸葛亮の回想シーンがちょっとあった場面。
それから、陳泰と郭淮にボコられながらも、命からがら姜維に援軍を求めた李キンが力尽きたシーンでしょう。


ちょっと気になったのが、他の巻とくらべて、コマがでかかったり、無駄なコマが多い気がしました。
コンパクトにまとめすぎてしまい、結局紙面が余ってしまったのでしょうか。馬を駆るモブ伝者のコマをやたら設けたり、建物のコマがやたら出かかったりしました。

横山御大もだいぶ苦労されたのだなと感じました。


確か学校の図書館に置いてあったんだよな、光輝三国志。




吉川英治の三国志 最終巻
小説は昔全巻読破しましたが、このブログに当たって参考にしたのは、「あとがき」です。
孔明死後の三国志と、後蜀30年がちらりと載っています。


孔明死後は竜頭蛇尾の感が有るとおっしゃりながらも、蜀や孔明、姜維に対する吉川御大の愛着が感じられる見事なあとがきでした。


姜維の奮闘も要所要所で描かれ、宮廷の腐敗を劉禅に訴える姜維。費イ、蔣エン、董允らが散っていく過程を吉川タッチでもの寂しく書かかれており、涙を誘います。

トウ艾&鐘会VS姜維の戦闘シーンや、呉VS魏は書かれておりません。


「孔明死後の三国志は一体どうなったんだ~!」


と、叫びたく成るほど、見事に読者の心を揺さぶります。竜頭蛇尾だと言いつつ、吉川タッチで書かれると続きが読みたくてしょうがなくなります。




その後の三国志

『その後の三国志』です。間違って『それからの三国志』を買わないようにしてくださいねw。

坂口先生の書籍はこのブログを書くにあたって、非常に参考になりました。
中でも、その後の三国志では演義では描かれていない後半部分の物語を正史からピックアップして、坂口氏独自の切り口で描いています。


演義では出落ち武将だったものも、正史では意外な役割をこなしていたり、演義で脚色された部分が明らかになるなど、演義しか知らなかった私には新鮮な情報が満載でした。
坂口氏の「司馬家嫌い」が目立つことも有ると思いますが、それもまた独自の解釈なので、私は楽しんで読んでいます。




三国志人物外伝

三国志人物外伝は演義では登場しなかった武将についても書かれています。
中でも、私にとって衝撃的だったのは、蜀の名将「羅憲」を発見した時です。

蜀滅亡のカウントダウンが始まっている中、火事泥にやって来た呉軍を寡兵でもって永安城を守りぬいた話は爽快でした。
羅憲の部下の楊宗もちょっと出演しています。この楊宗 かなり有能なので、こちらもチェックしてください。



もう一つの三国志

もう一つの三国志は、異民族の話がメインです。
孔明が南蛮制圧をしたと三国志演義や三国志に書いてありましたが、あれは脚色だったんですよね。
てっきり本当だと思っていました。


実際の南蛮攻略は、演義では地味キャラ、やられキャラとして、最後は魏の大軍に500騎で突撃して見事な死に花を咲かせた張嶷様が行ったようです。


張嶷様のお人柄、劉禅の彼に対する信頼、慎重な性格 がこの本では描かれています。

蜀の名将であるにも関わらず、演義では祝融夫人に負けてふん縛られてしまい、あんまりな立ち位置です。


また、姜維と羌族の関係についても触れられており、異民族と三国(魏、呉、蜀)がどんな関わりがあったかをわかりやすく解説されています。



その他の本

・覇「ロード」

マニアの間で問題作の「覇-LORD-」
池上遼一氏のトンデモ三国志です。
ほぼネタとして活用させていただきました。劉備が実は日本人(倭人)だったという設定で進んでいく三国志です。
最終回を立ち読みしましたが、「未完」としか言いようがありませんでした。


・呉・三国志
こちらもレビューを書きましたので参照を。

孫権の親族の孫郎が後半頑張っていましたが、非常に読みにくくて、投げ出しましたw



・龍狼伝
高校時代にちょい読みしたファンタジー系三国志漫画。
こちらを参照。

龍狼伝 三国志物語の亜種漫画をチラ見しよう!

日本で育った中国人と日本人のハーフ中学生が、殺人鬼と変貌していく様がいきいきと書かれています。
ストーリーの後半になると、気功波を使ったり、ゾンビが登場したり、別に三国時代じゃなくてもいい気がする漫画です。


・それからの三国志
これは・・・数ページ読んで売り飛ばしてしまいました。

小説?「それからの三国志」を買って途中まで読んでギブアップ


情報もイマイチ、姜維を主役にした二次創作小説だと思って買ったんですけど、あてが外れましたね。




・三国志
私はまだこの作品の全巻を読んでおらず、ブックオフで辛うじてゲットした1,2巻のみ。
まだ1巻しか読み終わっていませんが、後漢末期の黄巾の乱前の宦官腐敗も載っていますし、正史をわかり易く解説しながら進められていくタッチは、横着者の私にはピッタリです。


正史と言ったら本来こちら正史 三国志 を読まないといけないのでしょうけど、量が多く、ちょっと読みづらいので、コツコツとこちらを読んでいこうかと思っています^^;


孔明死後の巻はまだ読んでいませんが、大変わかりやすく書かれていますし、1巻(三国志前半)の出落ちキャラを早くこちらのブログにもアップしたいですね。こっち三国志演義前半戦!雑魚モブ武将を拾い読み! はずっとサボっておるなあ…。



とりあえずこれくらいでしょうか。
三国志を知るには、横山光輝、吉川英治あたりから入ると取っ付き易いですし、それ以外にも多くの有名作家が三国志小説を書いていますので、図書館に行ってつまみ読みして、面白いと思ったものを読んでみてくださいね!



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