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Channel: 三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
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諸葛靚 諸葛誕の息子 呉に人質に取られたり苦労人

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どうもっ!


諸葛菜です。


諸葛氏。三国志に登場する同氏はみな頭がよく、この姓のキャラが出て来ると萌えますね。
唯一燃えもしないのが諸葛緒さんです。


さて、今回は諸葛セイ。
三国志演義に登場するキャラのなかでも、かなり地味な諸葛氏ですが、その活躍を追ってみましょうっ!



初登場は三国志演義第112回。
諸葛誕 が淮南で挙兵した際、独自の力では司馬昭軍団に敵わないと思い、呉に加勢を求めました。

担保じゃないけど、人質として嫡男の諸葛セイが呉に連れられて行きました。


結局、父上の諸葛誕は司馬昭に殺されてしまい、諸葛セイは帰る場所を失ってしまいました。
呉にとどまり、そこで青春時代を過ごすことに。



次の登場は第120回。
三国志演義最終回です。

最終回ってのが、とても嫌な気にさせてくれます。

散るためだけに登場するのかっ(゚д゚!!



この時代、すでに蜀は滅び、魏は司馬氏に乗っ取られて晋となっています。
呉の皇帝は孫晧。
陸抗もすでになし。

そんな折、ついに晋の大軍が南下。


丞相張悌 は迎撃プランを孫晧に提案すると、沈瑩、諸葛セイを従えて自らも前線に向かいました。

諸葛セイにとって、この戦が初陣なのでしょうか。
しかも、国の存亡がかかっています。



10万の兵を連れて行きましたが、前線はすでにガタガタ。
伍延(ゴエン)孫歆(ソンキン)陸景 も討ち死に。



現場に到着した諸葛セイはあまりのやられっぷりにドン引き。


相棒の沈瑩も、敗北を覚悟したのか、


「とりあえず破れかぶれに戦って、運良く晋軍を押し戻せたら我が国も安泰。玉砕覚悟で行ってみようか?」


と、悲壮な決意を語り、諸葛セイも


「いかにも」


と、カラカラになった喉の奥から一言を振り絞っていました。



これは・・・綿竹関攻防戦での諸葛瞻、諸葛尚親子のデジャブかっ!?
やっぱり、乱軍の中で討ち死にしてしまうのか・・・。

そう思っていたら・・・晋軍があまりに早い猛攻に、上流の友軍が敗れ始めた。

どーする!?諸葛セイ!?


「東呉ももはやこれまでにござります。降参されたらいかがにござりますか(´;ω;`)」


張悌閣下に直訴。


しかし、ご覧のとおり、張悌は最後の最後まで戦い討ち死にしてしまいます。
沈瑩も張悌に従い討ち死に。


諸葛セイは涙を流しながら立ち去った・・・。


ここで、演義での活躍は終了です。




「諸葛セイは戦ってないじゃん!」


いいんDEATH!



なんせ、時の皇帝は孫晧。
晋との戦争までに何人も忠臣、名臣を殺しまくっている恐怖の「大佐」ですから。

こうなっては、降参するも逃げるのも、討ち死にするのも個人の勝手です。
不正解はありません。



諸葛セイのとった行動も正解です。
最後まで戦えと言う人は誰も居ないでしょう。

諸葛セイが泣きながら落ち延びましたが、張悌、沈瑩との熱いやり取りがあったのではないかなあ・・・と妄想をふくらませてしまいます。


思えば、呉に来たばかりの頃は、司令官が孫チン
孫休 で一息ついたと思ったら、お次は暴君孫晧。


これじゃあ、愛着も生まれないでしょうな・・・、呉に。




諸葛セイのその後ですが、当然晋に降参しました。

いつまでも逃げられるわけもないし、逃げるにしても、中華から出ないと行けませんよね(^^ゞ


降参しても、司馬氏に父諸葛誕を殺された恨みを忘れてはいません。
大司馬を命じられても復命しなかったり、故郷に戻っても、洛陽には背を向けたたま生活していました。


でも、司馬炎は諸葛セイの友人だったので、また会いたいと思ったのでしょう。
司馬炎の叔父司馬伷(シバチュウ) に嫁いでいた諸葛セイの姉の伝を使い、彼女の家に諸葛セイを呼び出しました。


酒宴がそこそこ盛り上がった頃合いを見計らって、司馬炎は、


「君はまだ僕のこと友達と思っているよNE?」


と、問うと、


「私は豫譲(戦国時代の刺客。主君の仇を討つため、漆を顔に塗り、炭を飲んで声を変えた)の真似もできず、こうして聖顔を拝することなった・・・」



司馬炎は気まずくなって帰宅。


調子に乗るなとばかりの諸葛セイのボディーブロー。
なんちゃって中華統一した司馬炎のウブなハートに思いっきりぶっ刺さったでしょう。


諸葛セイは三国志7にも登場。
諸葛セイ、諸葛恪諸葛瞻諸葛尚 の4人を同時に使って遊んだことがありました。



三国志後半武将人物名鑑  


三国志演義前半戦!雑魚モブ武将を拾い読み!

Eじゃない~諸葛靚!


三国志(歴史)ランキング


王凌 淮南で司馬家に立ち向かった第一号

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どうもっ!


諸葛菜です!


三国志演義では扱われなかった王凌さんです。

三国志演義後半の武将と言いつつ、三国志演義に未出演の武将も取り扱っておりますなあ、このブログ。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界




王凌の略歴


おじさんはなんと、呂布とともに董卓を退治した王允!

董卓軍の残党李カク・郭シが長安を占領した際、王允の一族は皆殺しにされてしまいましたが、王凌は兄とともに長安から脱出し、郷里に逃げ帰りました。


後に中山太守となり、治績をあげ、曹操の目にも止まりました。

青州刺史を歴任し、曹休が石亭の戦いで大敗した時は奮闘して彼を救出。
豫州、揚州など様々な場所で実績を上げ、軍民たちからも信頼されていました。


王凌は司馬朗(司馬懿の兄)、賈逵(賈充の親父)とも親しく、彼の業績を引き継ぎました。
更に、戦いでも実績を上げ、呉の将軍全ソウ率いる数万の軍勢を退け、車騎将軍にも昇進。


ばっちりです。


文武両道です。


彼の外甥に当たる令狐愚も淮南に駐屯しており、王家の勢力は強固なものになっていました。





三国志演義後半の王凌


時代は司馬懿の台頭時代。
曹爽 を亡き者にし、曹芳 が若いため政はすべて司馬氏の手にあった。
危機感を覚えた王凌は曹操の息子楚王曹彪を許昌に迎え天子にしようと考えた。



三国志の様々な予兆を示すのに、歌があります。

なんたらフラグというやつですな。


王凌の任地では、「白馬が白い轡をはめて西南に向かう。乗っているのは朱虎騎」

白馬は曹彪の過去の任地。
朱虎は曹彪の字。

令狐愚は吉兆だと喜び、廃立計画を実行に移し始めた。


王凌は洛陽にいる息子王広に計画を打ち明けたが、息子は「災いが降りかかる」と反対。王凌は聞き入れない。
さらに、この時令狐愚が急死してしまった。



251年。
呉がト水をせき止めたため、魏に攻め入る態勢を見せたため、王凌は呉討伐の軍を起こすべしと上奏した。
もちろん、これが勅許されれば、司馬懿を討つ計画だったのだ。


しかし、残念ながら勅許されず。



252年。
王凌は占い師から「呉楚の地に王者が出る」と聞き、挙兵を決意した。


曹彪が楚王だから、てっきり彼が王者になれるとおもったのでしょうね。


計画が密告される

黄華という人物は酒泉郡に拠って魏に最後まで抵抗した漢。
その男を語らって廃立計画を立てようとしますが、密告され、司馬懿が動き出す。


王凌を安心させるため、司馬懿は恩赦の書簡と息子王広の説諭の書簡を一緒に送り届けた。

王凌は事が発覚したので、自縛して司馬懿を待った。


司馬懿に縄目を解かれた王凌は一安心。


「司馬朗とも仲がよかったから、弟の司馬懿なら、もしかして許してくれるかも…」

と、思ったかもしれません。


しかし、王凌を載せた船に、司馬懿は近寄ろうとしない。
これを見た王凌は敬遠されたと知り、焦りだす。


嵌められたと気づいた時には、すでに遅し。


王凌「君は私を欺いたな?」

司馬懿 「私は君を欺くが、天子を欺かない」


と応酬。


王凌は自分の命が助かるかを確かめるため、棺桶に打つ釘を司馬懿に求めた。


駄目だよ・・・そんな意味深な言葉で核心に迫らないでっ!

B'zじゃないけど、それじゃあ「BAD COMMUNICATION」だよっ!(ノД`)



司馬懿は・・・


普通に釘をくれました。

王凌の棺桶は準備してあるから・・・ってことです。


王凌はこれで覚悟。
毒をあおって自決しました。


王凌の家族は皆殺し、王凌及び令狐愚の死体も暴かれ、市場で三日間さらされた。

楚王曹彪も自殺。


淮南の乱はこれにて集結。

この後、カン丘倹諸葛誕 と淮南の地で挙兵しますが、この3つの挙兵に直接的な関連性はありません。


まあ、共通した目的としては司馬氏の専横に業を煮やした忠臣たちが、皇室のために立ち上がった戦いでした。



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王凌


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前編も更新

公孫越 出落ち武将だけど横山光輝三国志、三国志ではちょっぴり名が知れている

宋白 県令だからって舐めるな!毌丘倹を討ち取った漢

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どうもっ!

諸葛菜です!


三国志演義後半部将の出落ち部将は絶対に見逃さないっ!

カン丘倹にトドメを刺した県令の宋白様だ!


三国志演義での登場は第110回。

カン丘倹が司馬氏の横暴に待ったをかけるべく挙兵した回です。


カン丘倹は部下の葛雍が討ち取られ、意気消沈。
慎県というところまで落ち延び、そこで彼を迎え入れたのが県令の宋白。


酒宴を設けてもてなし、カン丘倹らをすっかり油断させました。

カン丘倹が思わず大酔するところ、宋白は人に命じて彼を殺害。


首を掻き取って魏の軍勢にカン丘倹の首を献じた。


これにて、演義での活躍は終了!


でも、これは三国志演義の創作なんですね。


実際は、潁水というところで身を潜めていた時に、都尉の部民張属という人物に矢で射殺されたそうです。


まあ、結局は寝首をかかれて死亡という悲しい結末でした。




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県令


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前編も更新

孫静 孫堅の弟 孫家のブレーキ役で孫策を支えた漢

三国志演義に登場する姜維の記念館

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どうもっ!

諸葛菜ですっ!


今まで三国志演義後半の地味武将をピックアップして来ましたが、「彼らの遺跡も知りたいっ!」と思ったので、新コーナーを設立しました。


諸葛亮などのメインキャラの記念館は有名だけど、地味武将の墓とか記念館があれば面白いなあと思い、チャイナサイトで色々調べています。



やっぱり、まずは姜維伯約選手の記念館から行きますか。


まだ行ったこと無いけど・・・。


姜維の記念館
甘粛省天水市甘谷県六峰郷姜家庄
こちらに交通手段が載っています。
http://sanliu.web.fc2.com/yiji/sichouzhilu.html



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



彼の故郷である甘谷県から東に約5km離れた南山の山麓にあります。
地域の住民たちがお金を出しあって1999年に姜維の記念館を再び修復しました。文化大革命で数々の遺跡が破壊されましたが、姜維の遺跡まで手が及んだのですね…。


記念館の前には広場があり、大門、庭、小門、主殿があります。

記念館の中庭には、姜維故里と書かれた石碑があり、大殿廊下には、有名人の書いた詩歌、描いた絵画が飾られています。




三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



敷地内には4mの姜維の像が鎮座ましましています。

記念館の後ろには将軍坡という山があり、そこの山には姜維の母親が暮らしていた洞穴があり、姜維も小さい頃そこで育ったと言われています。


現在、この記念館は、観光スポットとしてだけでなく、地元政府の愛国主義教育基地となっているそうです。


基地…。


中国の愛国主義教育と言ったら、学校で主にやっていると思いますが、姜維の遺跡が愛国主義の基地か…。


校外学習でちびっ子が遊びに来る程度かな?


姜維様あ!


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前編も更新

孫静 孫堅の弟 孫家のブレーキ役で孫策を支えた漢



姜維シリーズはこちら^^;

姜維 part1 孔明イズムを受け継いだ天水の麒麟児!!


姜維part2 夏侯覇が味方に!費褘の抑止もきかず、北伐に踏み切った!


姜維 part3 司馬昭を追い詰め 徐質、郭淮を討ち取ったどお~!


姜維 part4 久々の勝利!魏の王経を倒す!そして、鄧艾登場


姜維 part5 VS鄧艾!北伐は続く…犠牲はたくさん。でも挫けない。


姜維 part6 不屈の闘志で戦い続ける男 もう気持ちだけ


姜維 part7 黄皓を詰めることができず…攻め寄せた魏の大軍と大決戦!


姜維 part8 剣閣に立て籠もるも降伏 鍾会とともに反乱


姜維 最終章 トウ艾をシバイて鐘会とともに爆ぜる


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PR: 聴覚障害者のためのオリンピック 「デフリンピック」

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デフリンピックとは何かを福原愛さんからの応援メッセージなどを交えてご紹介します!

廖化 蜀の叩き上げ職人武将!劉備流浪時代からの猛者

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どうもっ!


諸葛菜ですっ!



ついに廖化だゾオ~!

廖化は三国志演義後半の大好きな武将の一人だから、もっと早くに書きたかったけど、活躍場面が姜維とかぶっていたから書きにくかった!


でも、今回は書くぞお!


さて、廖化。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



三国志演義では元黄巾賊として登場。
関羽が曹操の魔の手から逃れ、関所を守る武将の首をかっ飛ばしつつ旅をしている時に登場。

廖化です。


その後、関羽と行動を共にし、呉や魏と戦いました。

関羽が負けた時に呉の捕虜となって、その後うまく蜀へ逃げおおせたことは、余り知られていない・・・のかな?


蜀とくらべて国力の充実している呉を離れて、弱小国の蜀に逃げ帰った廖化は、まさに蜀の忠臣。


劉備、関羽、張飛、趙雲他五虎将がなくなってからも、諸葛亮孔明の北伐に従い、功績をおさめて来ました。


諸葛亮孔明死後も、その遺志を継いだ「闘う闘魂姜維伯約」の元で北伐の先鋒となったり、大活躍をしました。


廖化、大したものです。

斜陽の蜀にあって、身を盾にして戦って来ました。

暴走気味の姜維を支え、相方の張翼とともによく頑張りました・・・。




にもかかわらず!





蜀中無大将、廖化作先鋒
(蜀中に大将なし、廖化を先鋒とする)



だって?




ふざけるなっヽ(`Д´)ノ!!!




蜀末期、70を超える老将が現場に出ていたからって、いいじゃないっ!

それだからって、蜀に人材が乏しいとは限らないじゃないっ!

廖化が優秀すぎるからかもしれないじゃないっ!

老いてなお、熱き雄志があるんだよっ!戦国時代の廉頗将軍みたいな熱い武将なんだよっ!

そりゃあ、姜維、夏侯覇と比べた見劣りはするけれども・・・。


廖化を先鋒になんて言うけれども、これは廖化の能力云々ではなく、蜀の国家的問題、劉禅の問題ですな。

後進の育成、発掘を怠っていたから蜀があんなふうになってしまったわけだし。

廖化のような古参の現場武将が先鋒に立ってくれれば、将兵も心強かったでしょう。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
やっぱり廖化にゃ獲物をたくさん持っている姿が似合う!
ファイナルファンタジーのギルガメッシュさんみたい




三国志演義後半での活躍。


第109回。

姜維が迷当大王をたぶらかして 、魏へ出兵させると、廖化も姜維夏侯覇張翼 らとともに出陣。

先鋒を命じられて、隴西へ向かった際、魏の先鋒徐質と激突。


廖化は斧使いの徐質 に大苦戦。
数合もせずに逃げ帰ります。



姜維は兵糧を餌に徐質をおびき出し、火攻め。
この時、廖化は獲物である徐質を狩るために死地へとグイグイ押し込んで行きました。

徐質は姜維に討ち取られ終了。



さらに、司馬昭の本陣へも突撃をかけ、ここで廖化は無双発動。
鉄隴山へ司馬昭を追い込みました。

司馬昭が泉を湧き立たせたり、迷当大王を寝返らせたりしているうちに、蜀軍敗北。



フー。

廖化の評価がそれほど高くないので、ちょっと不満ですな。
三国志演義での活躍はまだまだ続きます!



廖化いいよっ!


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傅嘏(フカ) 魏の尚書 司馬師の幕僚 カン丘倹、諸葛誕の乱で的確な進言をした

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どうも!


諸葛菜ですっ!


今回は傅カさん。
知らなくて当然です。普通なら演義を読んでいても目につきません。

端役でしたし。

三國志9では確か登場していたかと思います。



ウィキにもありますが
曹爽一派の何晏、李勝などが全盛期の頃、傅カは彼らと与さず、コツコツと仕事をしてきた人なんですね。

李勝の統治がいい加減だったけれど、後任の傅カはしっかりと統治をして引き締めをはかったようです。


登場回は第110回。
カン丘倹が義兵を起こした時のこと。

司馬師、鍾会はじめ演義後半の知勇兼備の将軍たちを引き連れ、魏本国より、カン丘倹討軍が出陣!


カン丘倹は北方の異民族征伐で名を上げた武将ですから、相当能力は高いです。


まあ、このカン丘倹の乱自体は、坂を転がるように崩壊へと向かっていったのですが・・・。
それもすべて魏軍に智将が多かったから。。。

その参謀の一人が傅カさん。

カン丘倹が攻めようとすると、南方の呉の孫峻に背後を脅かされてしまうので、カン丘倹は一度寿春へ引き上げました。



司馬師は諸官を集め協議。


傅カは


「カン丘倹が兵を退いたのは、呉の軍に寿春を突かれるのを恐れてのことにほかなりませぬ。必ずや項城にもどり、兵を分けて防ごうとするでござりましょう。これより一軍を楽嘉城に一軍を項城に、また一軍を寿春に差し向けられますれば、淮南の軍勢の退くことは疑いござりませぬ。エン州の刺史トウ艾は智謀に長けたものゆえ、彼に楽嘉を衝かせ、さらに大軍をもって加勢いたしますれば、造作なく賊を打ち破ることがかないましょう」


この作戦はどんぴしゃり。

作戦遂行中、文鴦の奇襲と彼の無双能力が予想をはるかに上回っていたことで、誤算が生まれましたが、カン丘倹退治は成功しました。


カン丘倹に止めを刺したこの計略。
状況分析がしっかりできていて、カン丘倹のステータス、行動パターンを知り尽くした上でのナイスアイデアでした。


この戦いの時も司馬氏の周辺に優秀なブレインがたくさんおりましたな。
鐘会、傅カ、王粛、鄭ボウ、王基。現場武将では石苞、胡遵、諸葛誕・・・。


カン丘倹・文欽コンビが勝てる見込みは薄かった。


傅カ並のがゴロゴロいるとして、そんな国と戦って孔明死後30年持ちこたえた蜀は大したもんです(^^ゞ



フカ!


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鮑三娘のお墓 関索とのラブストーリーは突然に

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どうもっ!

諸葛菜です!



鮑三娘って三國無双で初めて知りました。

この人が実在したかどうか、ろくに調べることもなく、盧遜さん兪渉さん と同じ架空武将だろうと勝手に思い込んでいました。すみませんm(__)m



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
両手に段平2枚!すげー腕力( ゚д゚)



お手軽にウィキって見たら、随分詳しく鮑三娘さんのことが載っていました。

詳しくはウィキリンク をどうぞ。
あと『花関索伝』という作品もあるので、こちらもウィキってみてください。



方三女は鮑ガイという人の三番目の娘で、美人な上に腕っ節も強く、そんじょそこらの男共では彼女に敵わないという、まさに男顔負けの豪傑。


「自分より弱い奴とは結婚しねえ!」


というくらいの超肉食系、体育会系女子でした。


当時、関羽は荊州で放浪中、その際、関羽の息子関索は鮑三娘の噂を嗅ぎつけ、手合わせすることに。
さすが腐っても(腐ってないw)関羽の息子。

50合程打ち合った末、鮑三娘は関索に打ち負かされてしまいました。



これに惚れ込んだ鮑三娘は強引に関索と結婚。
関索も、この娘美人だしwってんで速攻でスピード婚。



美髯公関羽オヤジもビックリの破天荒な展開でした。



昼の槍だか矛での殴り合いのあとは、真夜中に真っ裸でスパーリング。




その後、

関索は諸葛亮にしたがって孟獲退治。
鮑三娘は葭萌関を守備することで離れ離れに。


関索の死については、孟獲征伐の時に死んだとか、蜀滅亡の最終決戦で死んだとか様々な説があるそうです。


羅貫中も諸葛亮 の南征を創作したのなら、張嶷 をやられキャラに仕立てず、鮑三娘を南征に連れて行って、孟獲の妻祝融夫人とキャットレスリングをやらせた方が、後世へのうけが良かったのかなと思います。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


で、鮑三娘のお墓ですが、現在は四川省広元市昭化古城北5kmの場所にあります。
南北に21m、東西に19mの小山にお墓があるのですが、盗掘されたりしてちょっと荒れているようです。


三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



鮑三娘のお話は架空であるとの説が強いようですが、お墓があるというもの不思議なものです。
はっきりと『漢将軍関索妻鮑夫人之墓』と書いてあるそうですし。



近代、中国が国民党の勢力が強かった民国3年(1914年)に、あるフランス人に墓を荒らされ、骨や漢代のレンガに描かれた絵画などを盗まれてしまったそうです。
四川省人民政府は1996年、鮑三娘の墓を省級文物保護単位に定めました。




まあ、これも本当かわかりませんが、鮑三娘に関する一説を載せておきます。


263年、魏の大軍数十万が三路に分かれて蜀へ侵攻した。
魏の大軍は葭萌関に達し、姜維はその土地の地形に詳しい関索、鮑三娘に守備を命じた。


鐘会は漢水に迫り、蜀軍が寡兵でもって魏軍の渡航を防いでいたので、魏軍は攻撃範囲を広げ、一斉攻撃に出た。関索は奮戦し、魏の武将を多く打ち取った。


戦場ではなんと、関羽が殺したホウ徳の息子ホウ会と遭遇。
仇同士、まさに因縁の対決。両者の目は血走り、激しくぶつかりあった。数十合に及ぶ戦いだったが、すでに疲労困憊であった関索にとって、強敵ホウ会は相手がワルすぎた・・・力尽き、支えきれずついに川へ落とされてしまった。


この時、鮑三娘も魏軍に囲まれ奮闘中。衆寡敵せず、いくら猛将の彼女でも全身に刃物傷を負い、絶命。人々は鮑三娘をいつも兵の訓練を行なっていた場所に埋葬した。


鮑三娘については、コーエーテクモゲームスの創作萌えキャラだと思って、全然マークしていませんでした^^;。


彼女もそうですが、関索も意外と話題があるんですね~。
今度は関索も調べなくちゃ。



鮑三娘!いいね!と思ったら


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廖化 part2 北伐に反対し始めた蜀の良将軍

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どうも!


諸葛菜ですっ!



姜維が北伐に熱中している傍らで、クールに淡々と仕事をこなすベテラン老将廖化。

そんな廖化を書けて、嬉しい~!



Part1はこちら

廖化 蜀の叩き上げ職人武将!劉備流浪時代からの猛者



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


さて、三国志演義での廖化の活躍を追ってみましょう。



三国志演義第113回。

孫休孫チン を粛清し、この旨を蜀の劉禅に伝えた。
その手紙の中には「司馬昭が魏を奪う可能性が高いので、お互い気をつけましょう」という内容が書かれていた。



これが姜維 の闘魂に火をつけ、北伐を決行。
その際、廖化は張翼とともに先鋒を務めた。


祁山へ向けて出発したが、そこにはトウ艾のトラップがすでに仕掛けられていた。

狙われたのは王含、蒋斌の左翼。鄭倫の率いる掘子軍にやられ、初戦は敗退。



後日、姜維とトウ艾は陣形でもって戦い、ここでは姜維が勝利。

トウ艾は司馬望に姜維と陣立て合戦をさせておいて、その隙に自身は姜維の背後を衝くという作戦を計画し、お互いに陣を構えて戦おうという挑戦状を姜維に送った。


姜維は不審に思ったのか、諸将に問うと、廖化は


「これは、我が軍と陣法を戦わせるが如く見せかけておいて、一軍をもって背後から衝こうとしているのではござりませぬか」


姜維は廖化と張翼に命じて、山の裏手に伏勢させた。

案の定、トウ艾は鄭倫を先鋒に姜維の背後に回ってきた。


廖化は一気に打って出る!




敵軍の先鋒鄭倫 を初太刀で一刀両断!




兜首獲ったどお~!( ゚д゚)!!


何が「蜀中に大将なし、廖化を先鋒とする」だっ!




続いて、第115回。


「またHOKUBATSU!?」


「負けてばかりなのにい( ゚д゚)?!」


「西蜀の将星が衰え(略)」



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
左が廖化
廖化「大将軍(姜維)…無茶ばかりやで・・・」




と、様々な反対意見を押しのけ、北伐を強行しようとする姜維伯約。


廖化にも相談を持ちかけた姜維。


「今回はどこを攻めようかな?」


「ここ連年の出兵で、軍民共に生業にもつけず、加えて魏には油断ならぬ智者、トウ艾もおります。出兵を強行なさるのはそれがし賛成できかねます」



よく言った廖化!


文官共の諌めよりも、現場の先鋒からの一言の方が効いたはずだっ!



姜維もしまいには逆ギレ。

「わしに逆らう奴は容赦なく斬って捨てるぞ!」


なんて言う始末^^;



廖化は漢中の守備として残され、姜維は結局北伐を強行。
演義ではこの戦いで夏侯覇 は命を落としてしまった。




演義第116回~119回



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



司馬昭が蜀討伐を決め、鐘会トウ艾 に大将を命じ進軍。
蜀の要害はたちまち落ち始め、姜維も諸葛緒楊欣王頎牽弘 に阻まれ大苦戦。

軍をまとめて退却していると、廖化・張翼と合流。


合流後、姜維は白水関で迎撃しようとしたが、廖化は、


「もはや四方敵に囲まれ、糧道も絶たれておりますゆえ、いったん剣閣まで退いて後図を策するがよろしゅうござります」


糧道も絶たれてって・・・かなり危険な状態。

白水関の強度はわかりませんが、飯抜きで守れるような所ではなさそう。



しかし、それでも姜維は心を決めかねていると、廖化が再び、


「白水はせまい道ばかりで、合戦をする場所ではござりませぬ。ともかく剣閣に退いて守りを固めるがよろしゅうござります。もしかしこを失えば、帰る道もなくなりますぞ」



Eね、廖化…。


戦の全体図が見えているし、判断力も素晴らしいです。


「白水にこだわるなよ!だからあっ!剣閣に籠れって言ってんだよっ!」


と、廖化のシャウトが聞こえます。


廖化の判断が無かったら、剣閣普通に抜かれていたかもね・・・。


剣閣に立て籠り、鐘会軍を食い止めた廖化。



しかし、演義第118回で劉禅は降伏。
姜維も廖化、張翼董蕨 を引き連れて鐘会軍に降伏。


姜維は鐘会とともに反乱を企むものの失敗。
廖化は乱軍の中で殺されはしなかったが、心痛のあまり死亡。


以上で三国志演義の活躍は終了。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
賊時代の廖化さん



黄巾の残党として登場。
賊仲間の杜遠を斬り捨て、一度は関羽に同行を断られたものの、劉備軍に入隊。
その後も目覚ましい功績を残してきた廖化。


地味なキャラかもしれませんが、実力は折り紙つき。
三国志ゲームはたくさんでていますので、廖化も活躍させてほしいものです。


おつかれっ!廖化!

鄧艾・鄧忠(トウ艾・トウ忠)の墓 

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どうもっ!

諸葛菜ですっ!


三国志演義後半の英雄たちの記念碑、お墓、廟を追うこのコーナー。
今回は魏の忠臣、英雄。姜維をボコったり、成都を制圧したり三国志全体の中でも屈指の英雄!


三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
劇で使われるトウ艾のお面



トウ艾のお墓は四川省剣閣県から北に10km行った北廟郷孤玉山に位置している。



アクセス等についてはこちらが詳しいです!
http://sanguo.china-world.info/ruins27004.htm



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
瓦礫とゴミが・・・片付けろや( ゚д゚)!!


トウ艾トウ忠 が、部下の田続に暗殺された 曰くつきの場所。墓の周りは土塁に囲まれており、花崗岩でできている。墓碑には『魏征西将軍鄧艾墓』と刻まれていて、墓の側面には『彰順王廟』と書かれている。

※彰順王とは五代十国(907~960年)の前蜀王が天漢元年にトウ艾に追封した称号。


三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



昔、毎年2月になると近隣の住民はトウ艾の墓の前で、演劇をしたり、小さな祭りを開いたと言われている。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



文化大革命の時は、墓穴を暴かれたことがあった。
墓の中には石板によって部屋が2つに仕切られていた。部屋には1つずつ棺桶がおいてあり、長さ3m、幅1.4m、高さ1.8mもある。


墓の作りからしてトウ艾父子が眠っていたものであると言われている。




トウ艾の最後 については田続如き小物にしてやられてしまい誠に残念。


謀叛疑惑や人望があまりなかったことで、一時名誉を失っていましたが、樊震(はんしん) さんが名誉回復をしてくれたり、お墓を作ってもらったりトウ艾ファンにとってはちょっぴり心が休まるかな・・・?




トウ艾・トウ忠よ、永遠に・・・

三国志(歴史)ランキング

王平のお墓 王平墓 蜀後期の超実力派の良将軍!

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どうも!


諸葛菜ですっ!


中国語で三国志後期に登場したモブ武将どものお墓や遺跡、廟をググっているんですが、モブだけあって見つかりません^^;


やっぱりメジャーな武将になってしまいますね。


王平の記事はこちらでも書きました が、メジャー武将ならお墓があります。



王平、またの名を何平。


三国志演義でも時々何平と標記されていて、誰だかわからない時もありましたが、同一人物です。

巴蜀では古来より、王平の出身地である蓬州からは傑物が多く生まれると言われており、昔の賢人たちも蓬州の人士には一目置いていたそうです。

 

アクセスはこちらでご確認を

http://sanguo.china-world.info/ruins23047.htm



四川省文物志によると、蜀漢の王平墓は南充の青居郷鳳凰山にあり、墓碑の高さ1mあまり、直径2m、清の光渚年間に作られた。とある。


現地の人によると、


「王平将軍の墓は南充県永安郷鳳凰山にあり、清の光渚年間に再建設された。
中国が共産党によって統一される前は、王平の末裔たちが毎年清明節になると、牛、ブタ、羊の肉をお供えし、ろうそくを灯し、絹でお墓を掃き清めた」


とのこと。


しかし、街から王平墓までの道程が長いため、食糧を携帯して行かなければならず、共産党政権下になってから祭りは行われなくなったという。


1959年、道路を開通させるため、墓碑が取り除かれてしまった。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


でも、画像のように今でも王平墓があるということは、また新しく作ったんでしょうね。

もしくは、きちんとした墓碑があったけど、今はこんなものしかないのか・・・。




三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界


で、 南充市の街中にある高坪区江東中路というところにも王平のお墓があります。


写真で見る限りこっちの方が立派に見えるけれど、たぶん観光目的で作ったのかな?


王平のお墓があるの!?( ゚д゚)



っと、勢いだけで書いてしまいました^^;

詳しい方いらしたらお教え下さいませ~!

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周旨 三国志演義後半末期に呉の孫キン・沈瑩を打ち取り大活躍!

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どうもっ!


諸葛菜です!



三国時代末期に活躍した晋の現場武将周旨です。


三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



蜀が滅び、魏は晋となり、残すは呉のみです。



時の呉皇帝は孫皓。

暴政に民も臣下もクタクタになった頃合いを見計らって、晋軍が南下。
杜預、王濬が中心となって軍団を指揮しました。


周旨は杜預の配下として活躍しました。



この時の周旨の位は牙門将軍。


800人の兵士を率いて渡江し、巴山に伏兵した。


杜預に打ち破られた孫キン が敗走してきたところに紛れ込み、ちゃっかり城内に侵入。

そこで、孫キンをザックリ両断!!



「晋の軍勢は、長江を飛んで渡ったのか!」



という、三国志演義後半末期のキャラとしては大層な名台詞を吐かせて、皇族孫キンを討ち取りました。



続いて、呉の張悌 の副将沈瑩をも討ち取りました。



非の打ち所の無い現場武将…。


三国志演義前半 ではこの手の武将はごまんといたのでしょうけど、この時代(演義後半)に登場して、すぐに名のある武将2人を斬って捨てるとはなかなかです。


三国志演義後半で一兵卒から護軍に格上げになった魏のシンデレラ・ボーイ荀愷 (ジュンガイ) 以来、しばらく見ていませんでした。



牙門将から一気に出世していそうですね。


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三国志後半武将人物名鑑



周旨ったら

三国志(歴史)ランキング


司馬昭 父司馬懿、兄司馬師の跡をついて覇道をゆくっ!

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どうもっ!


諸葛菜ですっ!


いや~・・・このブログを開設してから1年余りが過ぎ、出落ち武将を書き尽くしてしまった感があります。
まだ残っているけど、メジャーも書かなくちゃあ・・・。


三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



司馬昭っ!
あまりにも有名なので、解説をする必要もないでしょう。
三国志演義後半での活躍を見てみましょうか。



演義第108回。
司馬懿 が老衰で死去。
その後釜を突いだのが司馬昭の兄司馬師

呉では孫権が亡くなり、孫亮が皇帝となった。



司馬師は呉討伐軍を催そうとし、早速軍議を起こした。
その時傅カ は、


「呉は長江の難所を前に控えており、先帝もしばしば親征あそばされながらついにお望みをとげられなかったもの。今はむしろ辺境を固める方が、上の策かと心得ます」


が、司馬昭は


「孫権が死に、孫亮 がまだ幼い今こそ、またとないおりではないか」


と、傅カ の諌めも聞かずに、毌丘倹(カンキュウケン)胡遵 ら多数の大将と数十万の兵をつれ、呉を討伐に向かった。



しかし、桓嘉韓綜丁奉 に蹴散らされ、先鋒軍は壊乱。
司馬昭はすぐに本国に引き揚げた・・・。


ちっ・・・あっさり引き下がっちまいやがって…。



呉の諸葛恪は魏軍を打ち破った後も北上し、張特と激突。
呉に対してばかり兵力を割いているのは不安と感じたのか、司馬師は司馬昭を蜀・魏国境へ飛ばし、蜀の襲撃に備えた。



演義第109回。
蜀の姜維が再び北伐を開始。
司馬昭は司馬師に大都督を命じられ、猛将徐質を連れて迎撃に出た。


蜀軍の大動脈である糧道を断ち切るため、司馬昭は徐質 に命じた。


「先に蜀を破ることができたのは。その糧道を絶ったからじゃ。今、蜀の兵士が鉄籠山のやまかげで糧秣を運んでおるとのこと。今宵、五千騎を率いて糧道を絶ってまいれ。蜀の軍勢はおのずと退くであろう」


が、この作戦はあえなく失敗。

徐質は姜維に討たれて、司馬昭は六千騎を率いて鉄籠山へ逃げ込んだ。

山は姜維にぐるりと囲まれ、山頂にある泉はほとんど枯れており、兵士たちの喉を潤すこともできない。

まさに万事休す。


スーパーデビル司馬懿の息子がこんなところで死んでしまうのか・・・!?(棒読み)

主簿の王トウ たら言う奴が、天に祈ってみたらというので、祈祷開始!



「昭、詔奉じ蜀の軍勢を追いのけんとしてここに至る。もし昭に命数なくば、泉を枯らせたまえ。昭、みずから首を刎ね、配下の者どもを降参せしめん。またもし、天寿のなお終わらざりしなら、泉を賜いて、者どもの命を救い給え~~~!」



泉がコンコンと湧き出たあ~~~!


演義後半の冒頭部分でやられたらたまりませんもんね。


主役補正で危機を脱出。


陳泰、郭淮 が救援に来たため、無事、洛陽に戻ることができました。


洛陽に帰ってからも一仕事が・・・つづくっ!


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三国志後半武将人物名鑑

三国志を抱く 無料ブラウザゲームに満を持して登場!

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どうも!

諸葛菜です!

久々の三国志ゲーム情報ですね。

巷を密かに騒がせていた『三国志を抱く』がついに6月19日に正式スタートですね!


二昔前だと、三国志ゲームと聞いたら天地を喰らうか、コーエー三国志だったでしょうけども、ネットが普及した現在はシミュレーションゲームにロールプレイングゲーム、アクションゲームと超多彩。

更に、キャラクターも汗臭い野郎どもだけでなく、女性キャラ、萌えキャラが数多く登場し、本来男性にも関わらず女人化されて活躍している武将もいます。

最近では、三国志の武将たちがアンデット化して闘うというゲームも有るくらいです。


さて、


今回紹介する三国志ゲームは『三国志を抱く』


CM発表会も行われて気合十分です!




ゲームの内容。
MMORPG×戦略ゲーム
私のようなゲーム音痴には何のことかわかりませんが、この意味は多人数同時参加型オンラインゲームでRPGの要素を備えつつ、戦略的に戦っていくことが要求されるゲームです。


シミュレーション一本のゲームか、「ちぎって投げるだけ(天地を喰らう系)」のゲームじゃないと遊べない諸葛菜なので、ゲームのジャンルを見ただけで頭が痛くなってしまいます。



武将そのものを鍛えて、武器やアイテムをカスタマイズしたりしながら領地を拡大していく。
領地を維持するためには農民を使って開墾したり、建物を建てたりしなければなりませんし、自軍の兵隊を鍛えて敵の勢力と戦わなければなりません。


相手は一般の人間や一騎当千の超人武将のみではなく、どうやらダンジョンにも潜ってモンスターとも闘うらしいです。


三国志ダンジョン。これだけでも一つのゲームとして売れそうな気がしますw


映像はもちろん3D。
画質も綺麗ですし、これでブラウザゲームなんて本当にありかよっ!ってくらいすごいです。


この内容だけでもお腹いっぱいになってしまいそうですが、約1000編のゲームドラマやシナリオ、クエストがあります。


ゲーム内で体験できるストーリーには、三国志のメインストーリーだけでなく、あまり知られていない秘話まで盛り込んであり、その多様かつ精巧な演出を通じて、自然に三国志のストーリーの中に入り込むことができます。


あまり知られていない秘話とは、やっぱり三国志演義で言うところの後半部分の物語でしょうか。

個人的には、

酒乱楊宗!不毛の荒野に明日をみた!!』
歩闡を追えっ!羊コ!秘拳100連打!』
孫ちん!死への秒読みやってみるかい?』
『逆賊司馬氏!死すべき奴らが多すぎる!』
『震えて眠れ!晋国を狙う羌族ども!』

北斗の拳チックになっちまいますが、秘話というくらいですからこれくらいはやっていただけならなと。


これなら、おっしゃるとおり自然に三国志ストーリーの中に入り込むことができそうです。


パソコンではインストールの必要がなく、ウェブブラウザ上で遊ぶことができるお気楽なゲーム。
登録もプレイも無料だし、三国志ファンでなくても遊びたくなってしまう内容ですね!

詳細はこちらでっ!( ゚д゚)
⇒三国志を抱く公式サイト

黄皓 蜀漢最狂の宦官 劉禅股肱の佞臣

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どうも!

諸葛菜です!


今回は黄皓でございまするよ。。。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
キャハっ!



三国志演義後半では、あまりにも有名で、あまりにも雑魚キャラ過ぎて…あまりにもダメキャラ過ぎて…歪んだ権力に対してすごくハングリーで…。



三国志演義本編での活躍を書く前に、黄皓の概要を。




蜀漢滅亡のS級戦犯



後主劉禅の宦官、自分の利益のために私党を作り、政治の腐敗と崩壊を招いた男。いや、男ではない宦官かっ!!( ゚д゚)


直接的に蜀漢を滅亡へと導いた宦官である。


黄皓の出身身分は低くかったが、彼がいつ宮仕えをし始めたのか史料には正確に記載されていない。彼がいかに狡猾で、悪知恵が働き、他人の歓心を自分に向けさせるための能力に長けていたかが伝わっている。


このため、劉禅と意気投合し、堕落のゴールデンコンビが誕生した。



244年、大司馬の蔣琬(ショウエン)の病が篤くなり、執政は費褘(ヒイ) 並びに董允 に託された。董允は、黄皓という人間は劉禅の身辺に置くべきではないことを早くから察知していた。このため、董允は厳しい口調で劉禅を戒め、同時に黄皓に対しても後主をたぶらかさないよう度々警告していた。
黄皓にとって、董允は天敵であった。董允 在世中は彼の言う事におとなしく従い、分を守り、黄門丞となった。


245年12月、蔣琬が亡くなった後、董允もこの世を去った。このため、侍中の職が空席となってしまった。費禕は蜀宮において有能なブレーンだったが、彼の一生の中で、後世において最も批判浴びてしまう決断をしてしまった。それは陳シを抜擢してしまったことである。


陳シは確かに有能な人材ではあった。しかし、董允のような剛直さがなかったと言われている。
黄皓は陳シと共闘し朝政を掌握してしまった。

多くの文官を自分の味方につけ、支持を得るようになってから、宦官である黄皓は朝政にも頻繁に口出しをするようになった。


黄皓&陳祗 が表舞台に立ってから、手始めに行ったことは、董允の悪口を後主劉禅に吹きこむことだった。そのかいあってか、劉禅は董允を深く恨むようになっていった。


黄皓はまた、自分と不和であった劉禅の異母弟である劉永をも貶めた。
劉禅の御前で劉永の悪口を吐き、劉禅は黄皓の言うことを聞いてしまい、以来10数年、劉禅と劉永は顔を合わすことはなかった。



258年。黄皓は車都尉兼中常侍に昇格した。
車都尉の職は2000石の俸禄を得、皇帝の馬車を管理することができ、中常侍の位では政治に関わることもでき、顧問的な役割も果たすことができた。
つまり、黄皓は皇帝が物事を決定する時に、いつでも意見が述べることができるようになったのである。
これより、黄皓の政治への容喙はますます激しくなっていく。




259年。陳シが死去。
この時、黄皓の勢力は侮りがたいものとなっており、劉禅は黄皓の言うことならなんでも聞いた。多くの人間が権勢者黄皓に取り行っていたが、黄皓とは一定の距離を取り、衝突を避けていた者もいた。郤正樊建(はんけん) らである。


剛直な羅憲などは反黄皓派であったため、黄皓に目をつけられた挙句、巴東太守を命じられ、実質的な『左遷人事』となった。


羅憲 を僻地に追いやってしまうほど、人事においても権力を握っていたのだ。


だけど、結果的にあたりな部分もあったけれど…。



262年。大将軍姜維は黄皓を処刑するよう劉禅に上奏したが、当然却下。
劉禅は黄皓など一宦官に過ぎず小物であるのだから、大将軍である姜維が気にする程ではないと姜維の上奏を退けた。


この後、黄皓を仕留められなかった姜維は、黄皓の勢力が強大であることに恐怖心を抱き、沓中に屯田し禍を避けた。
黄皓はこれを機に、姜維の代わりに閻宇 を大将軍とするよう画策していた。




263年。魏の大軍が迫ってきていたが、黄皓は姜維の上奏文を廃棄し、巫女を呼び寄せて吉凶を占った。巫女は蜀は滅びないと占ったので、劉禅はこれを信じてしまった。当然、文武百官でこれに異論を挟むものはいなかった。


魏との最終決戦で、諸葛瞻 父子も戦死してしまった。

諸葛亮 の孫である諸葛尚 は、「我々親子は国家の大恩を受けながら、早くに黄皓を殺すことができなかった…国家の滅亡を招き、人民に塗炭の苦しみを与え、これ以上生きて何になるかっ!」と死の直前に叫んだという。



魏のトウ艾 が成都を制圧した際、黄皓を殺そうとしたが、賂を贈って処刑を免れたと書かれている。この後、史書からは姿を消している。



蜀の史料は多くなく、黄皓の具体的な悪事はあまり書かれていない。


黄皓の概要を中国語サイトを見ながらまとめてみました。

今度は演義での活躍を追ってみませうか・・・。


でも、こんなヤツの活躍なんて、これ以上見たくないか…多くの人がお腹いっぱいになっちゃったかも^^;


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ちょっぴり異様なアクセスアップの謎 菅元総理大臣、オメエの正体は廖化かい!?

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どうも!

諸葛菜です!




アメーバブロガーの皆様ならご存知のことと思いますが、アメーバのアクセス解析ってどうも信じられませんよね^^;


他のアクセス解析ツールと比べると信ぴょう性がかなり怪しいです。

アメーバのアクセス解析は水増し? 等と言われています・・・




まあ、それはさておき、私のブログでちょっとしたアクセスアップがありました。

いつもですと私のブログの訪問者数はユニーク数で100人ちょっと。



三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



最近は更新も減ったので、アクセス数が減り気味なのですが、昨晩アクセスがかなり跳ね上がりました。

跳ね上がるといっても、もともとアクセス数が多くないので、大したことはありませんが。



だれかが2ちゃんねるで晒したりしたのかと思いました。


で、i2iのアクセス解析でキーワード検索をしてみたら、



「蜀中に大将なし、廖化を先鋒とする」


と、廖化絡みのキーワードでのアクセスが100近くありました^^;



おいおい・・・。




廖化、君なんか悪いことでもやったのかい?^^;


確かに君は黄巾賊上がりだったけれども、改心して関羽の片腕になったり、劉備三兄弟が亡くなってからも孔明に付き従って北伐も頑張ったし、孔明死後も麒麟児の姜維軍の戦法となって斜陽の蜀を支えたし・・・。



後世に残った俗語に反して、君の実績は21世紀の日本では十分評価されている…。


で、上記のキーワードで検索してみたらこんなニュースが引っかかりました。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130619-00000058-scn-cn



Yahoo!記事のコメントです。

安倍がゴロツキに見える
中共の偏光フィルタに気付けないお前らが愚民なだけ。

最近の中韓の日本関連の批判は「お前が言うな」とつっこんでほしいとしか思えないな

リンク元: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130619-00000058-scn-cn




記事の内容は、菅直人元首相と安倍首相の福島原発事故について。
ここでは省きますが、中国のネットユーザーまで飽きられている始末。



このブログで政治的なことや魔大陸の人民について書くのは控えさせて頂きますが、このニュース記事で「蜀中に大将なし、廖化を先鋒とする」ということわざを見て、その意味をGoogle検索していた人がたくさんいたんですね。



それで、この三国志後半ブログに行き着いた…。





なるほど…


ネガティブキーワードであったわけか^^;







廖化もいい面の皮じゃないですか・・・かわいそうに。




にしても、菅と廖化を比べては大変失礼です!






廖化に対して失礼ですよっ!( ゚д゚)


黄皓 演義でもダメ男振りを発揮

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関連記事:

黄皓 蜀漢最狂の宦官 劉禅股肱の佞臣


どうも!


諸葛菜ですっ!


前回、黄皓の概要を書きましたが、今回は演義での彼の活躍を追って行きましょう。




演義第113回。


司馬望・トウ艾軍を追い詰めた姜維軍。
正面衝突の陣立て合戦では圧倒的な強さを見せたので、このままいけるか・・・?と思われた矢先。



司馬望より、


「最近、蜀の劉禅は黄皓を寵愛して日夜酒食にふけっておりますゆえ、人を遣って抱き込めばよろしいのでは?」


との提案がなされ、党均という漢に賂を持たせて 、黄皓を籠絡。

ために、黄皓は劉禅に勅を書かせて、姜維を退却させた・・・。


三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界



第115回。


姜維は魏に戦いを挑むも、負け続き。
宮中では、黄皓が劉禅をたぶらかしており、負けっぱなしの姜維よりも右将軍閻宇に大将軍 を任せようと進言。


「姜維はたえて勝ったためしがござりませぬゆえ、閻宇に代わらせるがよろしゅうござります。ふひひひ・・・」


この企みを郤正先生 から聞いた姜維は、劉禅の元へ直行。


この時、黄皓は劉禅の相手をして、庭先で酒盛り中だった。
黄皓は姜維が来ることを、部下から聞きおよび、すぐに築山の影に隠れる。


姜維は劉禅に対して、今すぐ佞臣を覗かなければ、国家に災いが降りかかると強い口調で責めたが、一向に聞き入れてもらえない。



あまりに姜維がしつこいので、劉禅は黄皓を陰から呼び出し、姜維の前で土下座をさせた。


「それがしは朝晩お上にお仕えいたしているだけで、政に口出しした事なぞ一度もござりませぬ。他人の言葉に惑わされて、それがしの命をお召になるようなことは、なにとぞご容赦下さりませ。それがしの命は、すべて将軍の御心おひとつにかかっております。ご寛恕のほどお願い上げます」


地面に額を叩きつけ命乞い。

大将軍姜維を退けることに成功した!




第116回。


魏軍来る!
総攻撃をかけて来た魏軍に、蜀の国境が次々と侵されて行く・・・。


危急を告げる姜維の上奏文を黄皓は握りつぶす。


「これは姜維が功名をあげようとして申込して参ったものゆえ、それ程気にすることはありませぬ。それよりも、吉凶を占う巫女がいるから、占わせて見てはいかがですか」


と、来たもんだ(笑)


茶番はこちらで。

巫女の憑依占い




第117回
王含蒋斌 が降伏。


傅僉が討ち死に蒋舒が裏切り


ババク嫁さんに引っ叩かれても降参


この由、蜀のものが後主劉禅に急報すれば、黄皓


「それは流言にござります。神が陛下を騙すはずはござりませぬ」


蜀の宮中がすでに腐臭を放っているにも関わらず、陶濬(トウシュン) のような武将がいたら、黄皓の生肉かっ喰らっていたろうに・・・。


やっぱり蜀は人材不足だ^_^;!



第118回。

蜀漢降伏。
トウ艾は黄皓を国をあやまらせたことを聞いて斬って棄てようとしたが、彼の側近に賄賂を送って死を免れた。


党均あたりに渡したのかな^_^;


ここでは死を免れましたが・・・。



第119回。
上記の理由で黄皓は市に引き出されて五体ばらばらに斬り刻まれた。


司馬昭からは逃れられませんでした。


正史はともかく、演義では羅貫中御大がきっちりと黄皓の悪行にけじめをつけてくれました。溜飲が多少下がったかなと。


いやはや・・・とんでもない佞臣でしたな。


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中国の知人たちに聞いた姜維評を適当に並べてみる

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どうもっ!


諸葛菜です!


久しぶりの更新となってしまいました。
最近は仕事が忙しくて・・・三国志演義後半に登場する出落ち、雑魚、モブ武将が底を尽きかけているっていうのもあるんですが・・・とにかく、ブログを更新出来ませんでした。



三国志演義前半はまだまだいじれますねw

なんせ、雑魚、出落ちの数が半端ではない(^_^;)




さて、今回の内容ですが、諸葛菜の知人の中国人たちの姜維評。

まあ、彼らは三国志の専門家でも歴史家でもないので、あくまでいちファンたちのつぶやきだと思ってくれれば幸いです。




目くじら立てて論じることでもないと思うのでね。



「姜維は結局蜀の人民を疲弊させて、蜀を滅亡に導いてしまった」



「姜維の暴走は、自己の保身のためじゃねえか?益州閥と荊州閥があったけど、姜維は天水あたりの出身だから、言葉も通じないし、派閥組めるほど天水の人間って蜀にいたか?」



「ああ、絶対言葉通じないだろ・・・。うちらだって、四川のど田舎の農民がしゃべる四川語聞いたってわからんだろ?慣れれば話せるにしても、今と違って、標準語の母体がないからキツイだろ」



「そんな状況だから、成都にいたって、姜維の居場所はないだろ?まともに天水方面の言葉で話せるのは、馬岱くらいしかいないだろw」



「だけど、諸葛亮は純粋に姜維の才幹に惚れ込んで後事を託したんだ。それと、派閥云々というのなら、派閥もしがらみのない姜維の方が、自分の意志を継いでくれると思ったんじゃないのかな?」



「諸葛亮も派閥とかにはこだわっただろうし、人脈については聡いはずだから、蜀に人脈のない姜維に託したのは、悩み悩んだ結果だろう。才幹もあって人脈があった人物の方がいいだろうし・・・」



「とにかく、姜維が蜀を滅亡に導いたのは確かだ」



「やっぱあいつはアホだな。頭良くないよ。孔明ですら倒せなかった大国魏に戦いを挑み続けたんだから!」


君は費イかw



「姜維はやっぱり成都では浮いていたんだよ。諸葛瞻や他の武闘派(いたの?(゚д゚))と連携することもなかったし、上奏文が宦官に止められてるって分からなかったのかな?」



「鐘会と組んで謀反しようとした時も、降伏した蜀の連中をもっと使えばよかったのに。自分の部下と鐘会の私兵だけで蜀を乗っ取ろうとする考えがあまいわ。っていうか、派閥も人脈もなかったのでだめか」



「北伐って言ったって、絶対に保身だろ・・・。蜀国内での発言力を強めたかったから出兵しまくってたんだ」




他にもいろいろありましたが、話が廖化や張翼にそれたりしてしまったので、このへんにしておきます。


あくまでいちファンたちのつぶやきなので、鋭く突っ込む必要もないのですが、皆さん一貫して「姜維の北伐は保身のため」という意見でした。



人脈もあまりない彼が、諸葛亮の遺命と才幹で重職に就いたわけですが、現実は想像以上に厳しかったんでしょうね。そんな自分の立場を考えると、発言力に乏しく、大きな功を立てないと話にならなかったのかもしれません。


そうなると、保身のためというのはあながち間違っていないかもしれません。



三国志演技後半部分については、彼らはたいへん冷めた目で見ていましたね。
全然おもしろくないそうですw孔明死後は(^_^;)



私は、このブログでも述べてきている通り、姜維が奮戦しなければ、三国志演義も一二〇回まで行かなかったでしょうし、やはり、斜陽の国を支える孔明イズムを継いだ麒麟児を応援してしまいます。結果や戦犯だということもわかっていますが。



中には、「姜維の死は晋国以降に惜しまれた」と言っていた人もいました。
私は西晋以降は詳しくないのですが、蜀が晋となり、その晋も内部乱れて、国が分裂、異民族も中華に入り込んだりして、蜀の統治者も変わったでしょう。



そんな時に四川の人民が、「あの時、姜維さんが鐘会さんをうまく騙して蜀を統治していれば!」と思った方もいたかもしれませんね。




特に真新しい見解はありませんでしたが、中国の人って保身には敏感ですよね。
既得権益、自分の地位を守るために闘争することが好きな人達が多いですし、保身に躍起になるため、内部がまとまらない。


日本は国でも、大企業でも派閥などがあり、国として大きな目標を定めても、権益が絡んだりしてなかなか物事が進まないということはあります。


ただ、中国は国や大企業はもちろん小さな組織でも、大きな目標に向かって全員で努力するというのが苦手ですね。ほんとまとまりのない人民というか・・・それはいいとして、こういった背景があるから、保身にこだわるんでしょうね。


姜維評は中国語サイトにもありそうなので、こちらも探ってみます。


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