どうも!
諸葛菜です!
出落ち武将はいないかと検索をしていたら偶然見つけた馬隆!
こいつは以外にも大物だった!
登場当時の身分は低いですが、ビッグキャラでした。
調子に乗って続編!
前回の記事はこちら
牽弘、胡烈・・・そして、楊欣。
魏の時代からの歴戦の勇士たちが、鮮卑との戦いで次々と戦死。
モブ文官、武官どもが何の手もなく押し黙る中、鮮卑討伐に立候補したのが馬隆です。
周囲の反対があったもの、司馬炎は馬隆に3000人の兵士を募兵し、鮮卑討伐に行く事を許可しました。
募兵といっても、朝廷の役人どもは馬隆に3000人の兵士を与えることに反対しております。金や兵糧のサポートがありましたが、自分で募兵しなければなりません。
街なかで募兵の旗を立て、自ら呼び込みをかけました。
結果はなんと、一日で3500人の兵士を集めました。
いずれも大力の持ち主で屈強の者ども です。
どこから、こんな猛者共を集めたのかと質問しましたが、馬隆は
「どこから来たのかだって…?出身は問わねえ!」
と一言。
集まった兵士はゴロツキ、チンピラ、流れ者ばかりですが、腕は確か。
こういった人達が集まってくるのは、馬隆も黒社会的な人脈があったのか…、いや、こういった人たちをも吸収し、まとめていける器があったのでしょうね。
詳細な練兵法はこちら。
しかし、モブ文官共の嫌がらせは続いています。
人数が揃ったあと、馬隆は武器庫に行って装備を整えようとしましたが、提供されたのは、曹操時代…曹魏の頃の骨董品ばりのボロボロ武具でした。
ザク・マシンガン、ビームスプレーガン…こんな1年戦争時の武器でネオ・ジオンの新型モビルスーツと戦わされたら、誰だって怒ります。
典韋が使っていた双鉄戟、徐晃の大斧などがあれば幾らかマシでしょうけどね(^_^;)
まあ、冗談はさておき。
馬隆は司馬炎に文官から嫌がらせを受けていることを伝え、新品の武器と3年分の軍事物資を提供してもらいました。
279年冬。馬隆は武威に向かいました。
小さな馬車の上に小屋のような物を建て、戦車として武装させました。
さらに諸葛亮が用いた八陣の法を用い戦車で戦場を蹂躙、多くの鮮卑兵を屠りました。
突髮樹機能の軍隊は数万人いましたが、馬隆は寡兵で持って大勝利を得ました。
この時、鮮卑軍の被害は数千人以上出たといわれています。
馬隆がこの大軍を破った方法は何だったのでしょうか?
それは、磁石です。
馬隆は武威に磁石がたくさんあることを知っていたのです。
兵士たちに磁石を狭い道の両側に運ばせ、小さな峡谷となるように積み上げさせました。
戦いの前、馬隆は自軍の兵士に兵士に鉄の武具を外させ、皮の鎧を装着させました。
鮮卑と衝突しても、最初はわざと負け、この磁石の峡谷へおびき出しました。鮮卑軍の兵士はいずれも鉄の甲冑をつけていたので、磁石の峡谷に差し掛かると思うように進軍できません。
馬隆は、当然ここに兵士を伏せておきました。
馬隆の精鋭部隊である愚連隊が鮮卑兵に襲いかかるっ!
皮の鎧を装備している馬隆軍の兵士の動きは素早く、動きの鈍くなっている鮮卑軍を次々と屠りました!
兵士一人ひとりが無双乱舞!
鮮卑軍は、馬隆軍の兵士たちの動きが自分たちと比べてあまりにも敏捷なのを見て、神霊の守り神が宿った軍隊だと信じこみ、馬隆軍と戦うことを恐れました。
一方朝廷では、馬隆からの通信が途絶えたため、
馬隆軍全滅!
馬隆オワタw
馬隆は吉が少なく、凶の多い人物だ。
などの流言が流れていました。
司馬炎が落ち込んでいるところに武威前線から、馬隆の使者がやって来ました。
馬隆軍大勝の報告を受けた司馬炎は大喜び!
モブ文官どもの意見を聞き入れなかったことを、一人喝采。
馬隆に宣威将軍の地位を与えました。
馬隆はその後も、鮮卑首領の猝跋韓、且萬能ら10000人を降参させました。
この戦では鮮卑軍数万人を討ち取った言われています。
馬隆はさらに、降参した戎没骨能らを従えて樹機能と戦い、勝利。ついに涼州を平定しました。
朝廷では、馬隆とその将兵らに重い恩賞を与えるかどうか協議が開かれていました。
モブ文官どもは、
「もうすでに将軍の位を与えているのだから、更なる恩賞は必要なし!」
という意見が多かったのですが、衛將軍の楊珧という人がこれに反対。
「功績は偉大なので、恩賞を与えるべきだ」
と主張しました。
この意見を入れた司馬炎は、馬隆ら将兵に官爵と重い恩賞を与えました。
290年、馬隆は十数年の功績により官職も上昇。
涼州、西平のみではなく、朝廷にもその名は鳴り響いていました。
この時、馮翊、厳舒たらいう者どもが、すでに高齢になっている馬隆を陥れるため、皇室の外戚である楊駿なる人物に取り入ります。
「馬隆は高齢のため、判断力がなく、軍務を取ることができないから西平太守をやめさせるべき」と奏上しました。
司馬炎は馬隆を引退させ、厳舒を太守にしました。
太守交代間もなく、羌族他異民族が大結集して反乱を企て、住民たちは大パニック。
司馬炎は、10数年前に起きた樹機能の反乱を思い出し、厳舒を免職させ、馬隆を復職させました。
馬隆は復職してから後、西平太守のまま、その地で天寿を全うしました。
息子の馬咸も優秀で、勇猛な人だったそうです。
八王の乱で亡くなられたようですが・・・。
う~ん、三国時代以降を知らない私にとっては新鮮でした。馬隆の存在。
三国時代の頃はまだ、それなりの官職についていなかったし、目立ちませんでした。おまけに演義では司馬懿と王凌の絡みは一切無いので、演義デビューは全く無理でした(^_^;)
義があって叩き上げの武人。
戦国モノの歴史では、光る存在です。この地味地味な三国時代後半、主要キャラが小粒になっている中で馬隆の存在は一際輝いているのではないかなと。
いいねっ!と思われたら、ツイッターとかで馬隆の存在を爆散してくださいっ!
馬隆に清き一票をっ!