どうも!
諸葛菜です!
賈充さん、司馬昭の懐で助言をし、諸葛誕討伐、曹髦殺害など暗躍中。
第115回。
度々魏の国境を犯す蜀の軍勢は、中華の3分の2を支配する司馬昭にとっても目の上の瘤です。
姜維の侵攻には、洛陽にいる司馬昭もブチギレ!
「実にわしの患いの種ジャ!」
賈充が、
「姜維は孔明の兵法を深く呑み込んでおりますゆえ、早急には追いのけることは出来ませぬ。知勇兼備の大将を一人遣わして刺し殺させますれば、大軍を動かす手間もはぶけるのではござりますまいか」
知勇兼備の大将?
鉄砲玉のことですよねw
姜維
を刺し殺すとなると、頭もよく腕っ節も良くなければならないので、知勇兼備と言いたくなるのはわかりますが。
蜀の大臣であった費イ
を宴会の最中に刺し殺した郭循
という魏の降将がいましたが、これに味をしめてしまったのでしょうね。
確かに、キーマンだけを殺せば、多くの犠牲を出さずにすむ可能性はありませんが、そうは簡単に行きませんよね。
荀ベンという参謀が、
「わざわざ殺し屋を雇わなくても、大軍でやっつければいいじゃないの」
と意見を述べ、司馬昭もこの意見を入れ、結局、大軍で攻めることになりました。
で、トウ艾 、鐘会の活躍により、蜀を平らげるのですが、成都を支配下においたトウ艾が己の功を鼻にかけて独立する野心有りと、司馬昭に判断され、ここで賈充が一言。
「鐘会を位につけて、彼を牽制せしめたら良いと存じます」
この策略に、鐘会&姜維が見事に乗っかります。
鐘会もトウ艾に嫉妬しまくりですからね。疑心暗鬼にも陥り、トウ艾をハメるべく奔走しました。
もちろん、賈充の性格ですから、鐘会の行動にも疑いを抱き始めます。
司馬昭自身が大軍を率いて出陣します。これには引き篭もり気味の賈充も同行したのかな。
蜀を平らげた魏ですが、その命数もすでに尽きようとしていました。
司馬昭は、子供のいない兄司馬師に自分の息子である司馬攸を養子に出していたので、彼に位を譲ろうとしましたが、賈充らは自分の世継ぎである司馬炎がいるにも関わらず、司馬攸に位を与えるのは不吉であり、司馬炎自身も帝王の相をがあるので、是非、司馬炎を立てるよう諌めました。
司馬炎が晋王となり、司馬昭の取り巻きであった賈充も出世。
ある日、司馬炎が
「曹操はかつて『もし天命がわしにあるとすれば、わしは周の文王となるであろう』といったというが、これは本当か」
賈充、
「曹操は代々漢朝の禄を食んでいたものゆえ、簒奪の汚名を受けるのを恐れて、さようなことを言ったもの。曹丕を天子となさんとの下心は明らかでござります」
諸葛誕も言っていたけど、あんたの親父である賈逵とあんただって曹一族から給与もらっていたんだから、いくら新興勢力に阿るため、保身のためとはいえ・・・もっと他の言い方があったんじゃないの?
「父上と曹操を較べてどうか?」
と、聞かれた時も、
功績は大きいけれど、人民は特になつかずに東西に戦ばかり。司馬懿、司馬師、司馬昭が徳を敷き、蜀をも平定し、功績は曹操とは比べ物にはならない。
と、シャッキリポン。
受禅台を築いて、魏を嗣ぐように献策しました。
司馬炎は曹奐を脅迫し、トントン拍子で受禅の儀式まで進み・・・皇位を司馬炎に譲ることに…。
曹奐も、
「どうしたら良かろうか?」って、賈充に聞いていましたからねw聞く相手が間違っていました。
「魏の命数はすでに尽きました。このうえ、天に逆らうのはよくございませぬ。陛下には、漢の献帝の例に習われ(略)」
曹奐陛下、これにて皇位を追われることとなり、禅譲。玉璽を司馬炎に差し出しました。
司馬の裏に賈充ありっ!( ゚д゚)
三国志演義後半の文献はこちらから