どうもっ!
諸葛菜ですっ!
王濬もいよいよ大詰め…っ!と、言っても、晩年のあまり面白くない話をちょこっと書くだけですが^^;
王濬 part.1 三国志演義の締めを飾った孫皓を降伏させた将軍
上書して自己弁護する
晋の武帝は王濬に建平を攻めさせた後、杜預を派遣し、秣陵には王渾を遣わした。
杜預が江陵に到着後諸将に対して「もし王濬が建平へ攻め下ったら、我々の制約を受けずに進んでもらう」と説明した。
王濬が西陵に到着し、杜預は彼に手紙をしたためた。
そこには呉の西部を打ち砕き、秣陵も手中に収めた功績を称えており、呉の討伐を鼓舞する内容がしたためられていた。
王濬は秣陵に到着した時、王渾は王濬にしばらく軍をとどまらせるよう使者を送った。
王濬はそれに対し「風が強く、船をとどまらせることはできない」王渾はすでに張悌を斬り、呉の中軍を打ち破っていたが、更に軍を進めるにはためらいがちだった。
しかし、王濬はすでに孫皓を降伏させ、王渾は恥ずかしさと怒りを感ぜずにはおられず、朝廷に対して王濬が命令に背いたことを上書した。まあ、誣告ですな…。
朝廷での評議の結果、王濬を護送車に入れて都へ送還させることとした。武帝司馬炎は王濬に指さして詰った。
「呉の討伐は、軍令通りに進めなければならない。王渾が軍を留めるよう軍師を使わせたのに、どうして軍を進め、王渾の命令に背いたのかっ!」
王濬は弁護するために上書をしたが、王渾は武帝に対して、「王濬は呉の宝物を漁った」などと上書し、これに対しても王濬は女子て反論した。
王濬の晩年
王濬が都に戻ってから、王濬は不敬罪に問われた。
その不敬罪はやがて許され、輔国将軍となり兵を率いることができた。
襄陽侯となり、食邑1万戸、息子の王イが楊郷亭侯となり、食邑1500戸を賜り、絹、銭を賜った。
王濬は呉帝孫皓を降伏させた大功を成し遂げましたが、命令違反と言い立てて、その功を無き物にしようと奔走した王渾。
いかにもチャイナらしい話ですね。
王濬ってゲームではやや後半に登場する武将ですが武力、知力共に高く、なかなかの強者です。
三国志7で末期呉でプレイしていた時、王濬の水軍にこてんぱんにやられた覚えがあります。
王濬に嫉妬した王渾も、ステータスは高めでした。確か知力が高かったような…。
王渾は三国志演義後半でも登場した「名前だけ武将」でしたが、こちらも調査して記事にしたいですね^^!
三国志演義後半の文献はこちらから