どうもっ!
諸葛菜ですっ!
楊儀と言ったら魏延、魏延と言ったら楊儀。
三国志を語る上で、これはもはや常識っ( ゚д゚)!
・・・
ってほどではないですかね^^;?
楊儀が劉備陣営に着いた流れについては、ウィキペディア 等でご確認下さいませ。
横山光輝三国志の59巻、60巻だけ手元に置いてありますが、楊儀が孔明死後に活躍した姿はこの2冊に凝縮されています。
60巻の始めですぐに自刃してしまいましたが…。
三国志演義や三国志を読んでいると、完全に魏延が悪者で「謀反上等!」「孔明なんか何するものぞ!」と言う気炎を吐きまくっていましたが、魏延の記事でまとめたとおり、彼は謀反をする気はなかったし、楊儀のいうことが聞けない。楊儀が気に食わないから衝突してしまいました。
楊儀は諸葛亮孔明が今際の際、「錦の袋」を貰い、「魏延が謀反した時はこの袋の中身を見ろ」と言われました。
孔明の死の間際、軍中には王平、姜維、魏延がおりましたし、当時としてはちょっぴり小粒でしたが廖化や張翼もおりました。
成都へ退却するまでの臨時的な引き継ぎとはいえ、軍事行動を掌握するわけですから、武将に引き継げばよかったのに、実務処理の腕が良いからと言ってあえて楊儀を選んだのは、孔明の魏延潰しの最後の一手と見えます。
楊儀が臨時的にとは言え、トップとなったら、日頃から仲の悪い魏延がブチ切れるのは火を見るよりも明らか!^^
まあ、魏延を取り除くことで、自分の死後の蜀陣営が安定すると思っていたのでしょうが、一時的に仲間割れするのを完全に読んでおりましたな…孔明閣下。
魏延を狩るために、魏延に内緒で撤兵。
怒った魏延が追撃したところを、馬岱に切らせました。
参照:魏延 part2 孤高の戦士 謀反を起こしたと思われ楊儀たちに殺されてしまった…
楊儀は無事、蜀の軍隊を退却させましたが、その後の恩賞については決して満足のいくものではありませんでした。
蔣エンが孔明の後を引き継ぎ、楊儀は「中軍師」どまり。
長年、諸葛亮に付き従い、苦労してきた楊儀。
半生を費やしたと思うんですよね。
それなのに、「人物的に器が小さいから」とか「孫権には『魏延と楊儀をセット』で小物扱いされたから」という理由で大きな地位につけなかったのでしょう。
部下や同僚に愚痴をこぼしたくなる気持ちはわかりますよね。
楊儀の不満は朝廷の耳に入り、庶民に落とされ、成都から飛ばされてしまいます。
これを恥じた楊儀は自刃。
楊儀の器量が狭いとはいえ、この扱いはさすがに同情してしまいますよね。
まあ、魏延の首を見て足蹴にしたそうなので、器量もやっぱ狭いよなあ…。
孔明死後の楊儀については、演義や三国志で描写されているまんまでしたな…。
三国志演義後半の文献はこちらから