どうもっ!
諸葛菜です!
石鑑という人物をご存知ですかな?
「あ~、西晋演義や秦凉造反に出てくる杜預の上司だろう?」
と、思った方、詳しいですねえ~!
偉そうに書いているわたくしですが、晋や鮮卑の反乱あたりの時代については完全ににわか知識しかありませんw
先日、杜預 や禿髪樹機能に関する記事 を書きましたが、その中でちょこちょこ登場したのが石鑑でした。
チャイナサイトに書いてありましたので、ご紹介します。
石鑑、字は林伯。214年-294年。
出身身分は低かったが、志は高く公明な人物であり、魏の時代は并州刺史、仮節、護匈奴中郎将を務めた。司馬炎が晋を立てた後は、司隷校尉、鎮南将軍を歴任した。しかし、任期中に2回ほど戦績を偽って報告したため、免官された。しばらくした後、司隷校尉に復帰、右光禄大夫、大尉などを歴任した。294年に病没。
異民族戦線での石鑑様
禿髪樹機能たちが反乱し、凉、秦の両州の地域がことごとく陥落していくなか、朝廷は石鑑を隴右の都督として派遣した。現場でどんな活躍をしたのかわかりませんが、論功行賞を偽って(過大評価か?W)朝廷に報告。ここで一度免官されています。
その後、鎮南将軍、豫州刺史を務めましたが、呉との戦いでも「敵軍の首級の数を多めに報告」してしまったことがバレてしまいました。
それを知った司馬炎はもちろん激怒しました。
打ちとった数を偽って朝廷に報告することは大罪であり、そのような者は死刑になってもおかしくない。
鮮卑との戦いで、負け戦を勝ち戦として偽の報告をしたため、一度は免官にしたが、石鑑を信頼してもう一度重職につけた。にも関わらず、今回も同じように朝廷を欺くとは…
と、司馬炎もお怒りになりました。
そりゃあ・・・怒るわな^^;
結局免官されて放逐されますが、また復帰するんですよね、この人w
290年、司馬炎が亡くなってから、石鑑は張邵とともに武帝陵墓を修繕した。
当時、汝南王司馬亮は大傅の楊俊を恨んでおり、葬式にこなかった(兵を率いて場外に駐屯していた)。
司馬亮が兵を挙げて楊俊を討とうとすると伝え聞いたたため、楊俊は怯え始め、楊太后に晋の恵帝司馬衷より詔を出すようお願いし、石鑑と張邵の手勢を以って司馬亮を討とうとした。
張邵は楊俊の外甥である。そこで、兵を率いて早く出発するよう石鑑に催促をした。
石鑑は動ずることなく、軽挙妄動を慎み、人を派遣して司馬亮の動静を探ることとした。
司馬亮はすでに他の道から許昌に帰ろうとしていたため、楊俊は追撃を中止した。
石鑑の冷静な対応は人々から称賛され、武帝陵が完成した後、昌安県侯に封じられた。
と、最後は年寄りらしく、経験を活かして冷静な対処をとり評価されましたが、往年の頃、部下の杜預にまで糾弾されていたのですね!
安西将軍となった石鍳は、敵の勢いが盛んであるのに、杜預へ出撃を命じた。杜預は、相手が勢いに乗じており装備も固く、対して官軍の装備は乏しいことから、春まで進軍を待たなければ十中八九勝算はないと言った。石鍳は激怒して「杜預は恣に城門や官舎を飾りつけている」と上奏したため、杜預は檻車に収監の上で護送されてしまった。
石鍳の論功行賞が不誠実であるのを杜預より糾弾され、激しい口論となり、杜預と石鍳の両名とも免職され、散侯(爵位はあるが官職がない貴族)となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E9%A0%90
バカ上司の元ではやってられるかっ!
と言わんばかりの口論が行われたようです。
首級を水増しして、自分の功を多とした武将は過去にもいましたね。
文欽というおじ様でしたが、彼の場合、捕虜の水増し報告やその他素行が相当悪かったのに、目上の方や、時の支配者、時の人(曹爽)には上手く媚び売っていたので世渡りは上手でした。
文欽は気が荒く、礼節を弁えぬ性格のため人望が無い。
いずれの任地でも傲慢で、上司を馬鹿にしたり、法に従わないので周囲から憎まれていた。
このことでいつも弾劾の上奏を受けたが、曹叡はこれを抑えてやった。
文欽は、貪欲残忍さを取り上げられて、弾劾され中央に召し返された。
中央に戻ってから、曹爽に厚遇され、再び任地に戻ったが、ますます付け上がった。
中央に対し、捕虜数や戦功を水増し報告したり。
文欽 ノリがいいだけの漢じゃない!司馬一族に2度逆らった義士
まあ、文欽は時の人に逆らって反乱を企てたこともありますけど・・・。
何時の時代にも文欽や石鑑のような輩はいるんですな。