どうもっ!
諸葛菜ですっ!
劉禅とかまだまだ未完でしたね!
このへんの武将を早く片付けなくちゃっ!
劉禅の前回までの話は魏延 を退治したところまででしたね。
孔明死後の三国志演義後半では、絶賛迷走中!蜀の悲劇が間近に迫っても一切現実を直視しようとしない。姜維に北伐をさせっぱなしで、国政を顧みないとっちゃん坊やになってしまいました。
演義第107回では、夏侯覇
の降伏を受け入れました。
劉禅と夏侯氏は縁続きであると言ってそうとう歓迎したらしいですね。
劉禅の御前で、「夏侯覇を得たのは天の賜物!」と言わんばかりに、姜維が北伐を強行しようとし、それを諌める費褘(ヒイ) 。
そんなことは俺が考えることではないとばかりに、
「そなたがそれほ魏を打ちたいと申すなら、全力をつくしてやってまいれ。おくれをとって、朕の望みに背くような事はせぬよう」
その後も、姜維は北伐を何度か繰り返し、失敗。
蜀の中散大夫譙周(しょうしゅう)は姜維は北伐、劉禅は酒食に耽っていると仇国論まで書いて批判していたが、劉禅の生活習慣は改まりませんでしたし、姜維からは「腐れ儒者」扱いされてほとんど効果がありませんでした。
呉の孫休 皇帝が孫チン 及び孫ちん一派を粛清した後 、劉禅はこれを祝うために、祝賀の使者を送り、その返礼として呉が薛クを使者を送りました。
孫休より劉禅の様子を聞かれ、薛珝(セツ ウ) は、
「中常侍黄皓が大権をろうし、官僚たちは彼におもねっている。民草は飢えに苦しみ、『燕雀(小人)堂に巣食わば、大廈の焼けるのも知らず』というところで」
と、ざっくり。
孫休も、
「諸葛武侯が生きていればこんなことには・・・」
こんな言葉しか出てきません。
劉禅が政治を黄皓にぶん投げてしまったため
、こうなってしまったんですね。
姜維が珍しく魏のトウ艾相手に優位に戦いを進め、祁山にトウ艾を取り囲み、コーナーギリギリまで追い詰めていた時のこと。
魏は蜀軍を撤退させるために、黄皓へ賄賂を送り、劉禅に詔を発せさせ、蜀の姜維を撤退させる計略を発動。
姜維からも何故撤退を命じられたのかと理由を訪ねましたが、
「朕は、そなたが辺境に出陣して久しくなるゆえ、兵士たちが疲れはせぬかと思ったら引き返すよう命じたのじゃ。他意があったわけではない」
姜維との関係もギクシャクし始め、262年、姜維が再び懲りずに北伐をしたいと名乗りをあげました。
ショウ周が反対しましたが、劉禅は、
「ひとまず出陣させてみて、もし失態があったらすぐに呼び戻そう」
と、相変わらず、「とりあえずやってみたら」というスタンスで、この国家を左右する事業にGO!の決裁を押してしまいました…。
姜維 、黄皓に言われたことをそのまま「ウンウン」と返事をし、彼らに物事を任せてしまうのが劉禅くんの懐の深さ!民草の痛み、前線の兵士の気持ちなんて、ぽっくんにはわからんのでしょう。
そんな劉禅ですが、時には怖い男に変貌することもあります。
大臣の劉琰(リュウエンの妻
は生まれつき美しく、皇后に呼ばれ、後宮で1月過ごしてしまいました。
劉エンはこれに激怒。妻が劉禅と私通したと疑い、兵士たち一人ひとりに靴で妻を殴るよう指示しました。
劉禅は劉エンを捉えて打首。
劉禅が本当に劉エンの奥さんと寝ていたのかわかりませんが、この時は淫乱の所業多く、みんなから恨まれていたと、演義に書いてありました。
演義第117回では、魏の軍勢が本格的に蜀の国境を打ち破り、砦も次々と陥落。
が、劉禅は巫女の言葉を信じきっていたため、危機感はゼロっ!!
重要拠点も落とされてしまい、劉禅は諸葛亮の息子諸葛瞻に泣きつきます。
「トウ艾
の軍勢がすでにフ城に入り、成都もいつ破られるかわからぬ有り様じゃ。先帝陛下のご恩義を思って、朕の命を守ってくれい!」
病気と言って引きこもっていた諸葛瞻
に泣きつき、恩着せがましく、『先帝陛下が』と、自分に徳がないことを知って親の七光りを使って、かつての功臣の息子を口説く劉禅。。。
嗚呼成都。。。
結局、諸葛瞻も破れ、成都も陥落してしまうのですが、降伏か徹底抗戦か、それとも南蛮へ逃げるかを話し合いました。
息子の劉諶 (リュウジン)は徹底抗戦を叫びましたが、
「大臣たちはみな降参するがよいと申しておる。そなた一人、血気の勇にはやって、城内を血の海にする気かっ!」
劉諶はなおも反論しますが、言葉に詰まった劉禅は、
「そなたのような青二才に天の時がわかるかっ!」
と、一喝。
これで蜀の運命は決まりました。
平和を愛する劉禅…。
姜維
の反抗も失敗に終わり、劉禅の無事を知った霍弋も魏に帰順。
劉禅は、司馬昭より国政を乱した張本人と言われ、処刑されそうになりましたが、降参してきた者を殺すのはいかんと文武百官に諭され、安楽公という魏の捨扶持をもらいました。
宴席での話はあまりにも有名です。
とある宴席で蜀の音楽が流れると、蜀の旧臣たちはハラハラ泣いているのに、劉禅一人はご満悦。
「蜀が懐かしいでござろうな」
と、いわれれば、
「ここが楽しいので蜀のことなぞ思いもいたさぬ」
これには一同唖然。
見るに見かねて郤正
先生が、『祖先の墳墓が、遠い蜀にあるゆえ、西のことばかり悲しく思いだされて、一日として思わぬ日はござらぬ』と答えるように指導。
司馬昭はまた、
「蜀が懐かしいでござろうな」
と、聞かれ、ゲキ生先生に言われた通りの言葉で答えました。
「郤正
の言葉にそっくりでござるなw」
「いかにもさようでござる^^;」
と、司馬昭他群臣達は大爆笑。
司馬昭は劉禅に対して、警戒心を抱くことはありませんでした。
このエピソードは、本当に劉禅がお人好しの愚直な皇帝であったこと。
もしくは、わざとピエロのふりをして警戒心を抱かせず、結果的に蜀の旧臣他自分の一族を守ったと、最高の保身術であったとも言われていますね。
確かに、旧皇帝をぶらぶらさせておくことは危険この上ないし、いくらアホとは言え、多少なりとも警戒されるはずです。もし、劉禅が宴席において、まともな返答をしていたら、蜀の旧臣たちも「蜀復活の灯火は消えていない」と、妙な運動を始めるかもしれません。
そうなると反乱は起きるし、周囲の警戒も強まることになる…。一族と旧臣たちの身を守った…ともとれる言動ですね。
劉禅の行動を巡る議論については他のサイトさんでも行われていますので、気になる人はググッて調べるか、書籍で調べてみるとよいでしょう。