どうもっ!
諸葛菜です!
一度、ブログを書くのを再開させると続けて書きたくなるものですね。
かなり不定期になりますが、気の向くままに書かせていただきます^^
さて、最近は晋初であり三国時代末期にスポットを当てていますが、この辺りの時代こそ三国時代末期ファンが知りたいところではないでしょうか。
演義でも書かれていないので、蜀滅亡から呉滅亡までに起こった大小の事件についてなんでもいいから知りたいものです。
先日の記事にも書きましたが、呉滅亡寸前にようやく鎮圧させた禿髪樹機能を首領とする鮮卑が晋と戦いました。
「秦凉造反」三国時代以降の晋時代に関する本を見っけた!
禿髪樹機能についてググってみましたが、wikiには載っていませんでしたし、他のサイトにも概要が載っている程度で詳細は書かれておりませんでした。
中国語サイトには禿髪樹機能に関するまとめがありましたので、こちらをかい摘んで記事を書かせていただきます。
禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)
彼の苗字は禿髪、名前が樹機能です。
鮮卑の部落の首領で、祖父の禿髪寿●(門構えの中に真)が失くなった後、後継者となった。
成長した樹機能は智謀に長けている人物となり、晋の武帝司馬炎の頃、樹機能は270年に晋に対して兵を挙げ、秦州刺史胡烈 、涼州刺史蘇愉を斬り、翌年271年にはその他の異民族と連合して青山に篭もる牽弘 を包囲し打ち破った。
秦凉の挙兵について
鮮卑族は現在の内蒙古自治区アルグン川からシラムレン川あたりに放牧して生計を立てていた。
彼らの部落は繁栄し、日増しに強大となり西へと移動。東漢のはじめには現在の寧夏北部、甘粛省河西に分布していた。
現在の寧夏地区で活動していた鮮卑族には乞伏部、鹿結部、禿髪部という3つの部族に分かれていた。
魏晋の時代、彼らは異民族として蔑視されており時の王朝からは常に圧力を受け、搾取をされていたため、少数民族の間では王朝に対する不満の火が消えたことはなく、一触即発の状態であった。
268~269年の間、隴西地区は連年の大旱魃により、多くの少数民族たちは飢餓にに苦しみ倒れていきましたが、朝廷は一切救済措置を施さないばかりか、高圧的な手段をとった。
新任の秦州刺史胡烈は就任するやいなや、鮮卑族の集落に駐屯。武力でもって彼らを押さえつけようとした。
禿髪樹機能による抵抗
自分たちの部族を守るため、禿髪樹機能は鮮卑族たちの多くに推されて武装蜂起軍の首領となった。
270年、禿髪樹機能率いる鮮卑族たちは胡烈の指揮する軍隊と激突。悪戦苦闘の末、ようやく胡烈軍を打ち破り、胡烈はこの戦いで命を落とした。樹機能軍の威勢は高まり、士気は旺盛、勝ちに乗って南下し高平という地区を占領するに至った。司馬炎
は杜預を秦州刺史として派遣し、尚書の石鑒を安西将軍とし、大軍を率いて樹機能討伐にうち立たせた。
しかし、晋、鮮卑の両軍は一年あまり交戦し、官軍は樹機能を打ち破るどころか、寧夏周辺の各少数民族たちの晋への反抗心を高めることとなり、他の部族たちの攻撃にも大いに苦しめられた。
特に戦闘力のあったのが安定郡の北地にある匈奴軍であった。
各地の少数民族を糾合させて金城郡、涼州刺史の牽弘を殺し、北辺の涼州、南の秦州などの戦略的拠点を次々と打ち破り、晋の朝廷を震え上がらせ、司馬炎は心痛のあまり眠ることも食事をすることも出来なかったと言われている。
勢力の拡大
275年、樹機能は勢いに乗り金城、涼州に散る各部族たちを吸収した。晋朝は西方の奥地の異民族にまで影響が及ぶのではないかと恐れを抱いていた。277年、鎮西将軍司馬駿、平虜護軍文鴦 らが涼州、秦州、雍州の各州に兵を分けて進軍。樹機能は彼らに包囲攻撃をされ重傷を負い、兵を撤退させた。
278年、樹機能の部将である若羅抜能は再び戦力を整え、鮮卑族、羌族の異民族を集め、大挙して涼州を攻撃した。この戦いでは刺史の楊欣を打ち取り、再び涼州を占領し、晋朝を震え上がらせた。
司馬炎は朝廷の廟議でも、「誰か樹機能を倒せるものはおらんのかあ!」と叫ぶほどであったという。馬隆がその任務を買って出て、樹機能討滅に立ち上がった。
晋との戦いに敗れる
樹機能対馬隆の戦いはこちらで。
樹機能の部下であった抜韓、且万能らが1万人の部下とともに降伏した。
彼らはほこを返して樹機能に襲いかかり、混戦の中で樹機能は命を落とした。
禿髪樹機能残念でした!
元をたどれば、漢族王朝の長年の圧政と1年続いた大旱魃による被害を何とかして欲しいと陳情に行っただけで、軍隊を派遣され圧力をかけられた事が武装蜂起の発端。
270年に起こった反乱場所と、現在の東トルキスタンの位置はそう遠くはありません。
1700年以上経ってもやることが変わってないんですね!
穏便な集団での陳情、デモ行進を「少数民族のテロ行為」と決めつけて、武装警察を派遣させて暴力で持って押さえつける時の王朝。
大魔国の方は自分たちの歴史を誇らしげに話しますが、歴史を学ぶことを知らないようですね。もっとしっかりと学んで欲しいところです。
歴史にIFを持ち込んでしまいますが、禿髪樹機能もあと10年早く挙兵していたなら、蜀の姜維と連携して晋、いや、魏を苦しめることが出来たかも。
当時はトウ艾、鐘会はじめ天才部将他、そこそこ優秀な部将もいましたし、何より司馬昭
という食えない晋王がいましたから、涼州、秦州を取ることは難しかったかもしれませんが、杜預が「相手が勢いに乗じており装備も固く、対して官軍の装備は乏しいことから、春まで進軍を待たなければ十中八九勝算はない」と手を焼くほどでしたから、姜維率いる蜀と連携すれば長安までの道は拓けたかもしれません。
呉も孫皓ではなく孫休
の時代でしたから、蜀と連携して丁奉らを北上させてくれたでしょうし。
そういえば、この時代はまだ呉が青息吐息で存在していましたんですよね。
まあ・・・忠臣、能臣達が相次いで処刑されていましたら、この乱に乗じようとする気概もなかっただろうな^^;
禿髪樹機能の反乱は遅すぎた・・・。
むう…残念だったなあ!