Quantcast
Channel: 三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
Viewing all articles
Browse latest Browse all 106

吾彦 建平を守り続けた呉の漢 文武両道の猛者だった

$
0
0


どうも!

諸葛菜ですっ!


三国志演義後半ですと、呉のモブ武将が少なめですね。


死体となって登場する武将の数なら魏・蜀に負けていないんですが^^;



呉の武将を拾うのは一苦労。
目を皿のようにして読んでいないと、素通りしてしまいますからね!


○○は病死
○▼すでに死し。
■□は処刑され。


こんなのが多いです^^;



三国志演義後半の前部分に登場する呉の武将たちは、すでに拾い尽くした感があるので、後半の後部分を見ています。



沈瑩とかまだ残っていますね。




というわけで、今回はゼロ増吾彦!

全然「というわけ」ではありませんね^^;



吾彦の登場回は三国志演義第120回。


呉の先鋒隊(孫歆(ソンキン)  陸景  伍延(ゴエン)  張象 )が崩れ、陶濬(トウシュン) もやられてしまった後も、建平を守っていました。


孫皓が晋に下ったことを知って、初めて降伏しました。


三国志演義演義での活躍は以上。



これでは寂しいので、吾彦さんについて書いてみましょう。



吾彦の出生
吾彦の生まれは貧しかったが、文武の両方に長けていた。
身長は8尺、素手で猛獣を捕まえるなど、膂力は衆を抜きん出ていた。

中国の古代の武将って、素手で猛獣を捕まえられる奴が結構いますよね^^。



官職に就く吾彦。肝っ玉はデカイ。
最初は通江県の県吏となり、後に大司馬陸抗の部将となった。
陸抗は吾彦の勇気と知略を讃え、彼を抜擢してもっと重要な役職に就けたがったが、他の部将たちが不服を鳴らした。


そこで、陸抗は宴会を開き、一人の部下に狂人を装わせて、諸将を襲わせたw
その部下は刀を奮って宴席を駆けまわるものだから、諸将は慌てて逃げ始め(そりゃそうだ)た。
しかし、吾彦ただ一人は逃げもせず、小卓を持って刃を防いだため、諸将は吾彦の勇気を褒め称えた。
陸抗はすぐに吾彦を抜擢したが、諸将から不満は上がらなかった。



むむむ・・・。

ひとつ間違えると大変ですな。
諸将のヘタレっぷりが露わになり、武官だったら取り押さえるか、手討ちにするべきだと思うのですが、みんな逃げたって…。

それと、狂ったフリをした人も殺されなくてよかったです。


陸抗もどうやってこの茶番をブレイクしたのでしょうか?


「スイマセ~ん!どっきりで~す♪」


なんて言われても、諸将は収まりつかないでしょうね。




で、その後、吾彦は建平太守となった。
この時、晋の益州刺史王濬は戦艦を建造し、呉討伐の準備をしていた。
造船の際に出てくる、木の削りカスが長江上流から建平郡まで流れてきたので、吾彦はその木くずを孫皓に送り、「建平郡の兵力を増強させれば、晋の攻撃を阻むことができる」と奏上したが、孫皓は聞き入れなかった。


吾彦は唯一鉄の鎖を作っており、長江の険阻な部分に鉄の鎖を設置した。
また、大鉄錘をつくり、川の底に設置した。すべて、晋軍の軍船を足止めするためである。




三国志演義では吾彦の活躍は触れられていませんが、孫皓のお気に入りの岑昏が、同じような手段を講じ、鉄の鎖を川に張り巡らせて晋の船をハリネズミしようと孫皓に提案しました。
でも、王濬はこれに気づいて、松明で鉄をドロドロに溶かしました。松明の火で鉄を溶かすなんて、無理だろう…と突っ込みましたね^^;




結局、晋軍の勢いは凄まじく、鉄の鎖も焼かれてしまった。
ある者達は討ち取られ、多くの者達は降伏した。

吾彦は建平を堅守。呉の孫皓が降伏したのを知り、ようやく降伏した。


この辺り、蜀の霍弋のような身の処し方ですね。




降伏後の吾彦
吾彦は金城太守となり、その後は敦煌太守となった。
威徳と恩徳を備えていたため、人民からも慕われていた。

また、雁門太守ともなった。


吾彦は順陽の国内史となり、当時の順陽王司馬暢は横暴で身勝手であったため、以前内史となった者達は彼によって誣告されていた。


しかし、吾彦は清廉潔白であり、規律を厳しく粛清したため部下たちから恐れられるようになった。
司馬暢は彼を貶める理由が見つけられなかった。しかも、司馬暢は吾彦を推薦し、中央に戻してしまった。


中央に戻ってからは散騎常侍となった。
交州刺史も歴任し、九真の夷狄が反乱を起こしたが、吾彦は軍を率いてその首魁趙赴を討ち平定した。


あと、逸話もあるのですが、ウィキペディアにも載っていたのでそのまま転載しちゃいます。


晋代には金城太守となった。あるとき、武帝は呉の旧臣である薛瑩に対し、呉がなぜ滅びたかを質問したところ、薛瑩は孫皓の悪政を正直に述べた。それと同じ質問を吾彦にしたところ「孫皓は英明であり、呉の将兵も精鋭ばかりであったから、呉の滅亡は天命だったのだ」と述べた。つづく張華の質問に対しても、正々堂々と論述した。


燉煌太守を務め、恩寵に溢れた統治を行い、雁門太守となった。やがて順陽王司馬暢の内史となったが、司馬暢にはその清廉な人柄を敬遠され、員外の散騎常侍となった。ある人にかつて仕えた陸抗・陸喜の人物について尋ねられたところ、吾彦は「道徳や名望では陸抗は陸喜に及ばず、功績を立て賞賛されることでは陸喜は陸抗に及びません」と評価し、かつての恩人である陸抗のみを立てるようなことは言わなかった。


そのため、陸抗の子である陸機・陸雲には疎まれるようになり、吾彦からの陸家への贈り物は拒否されるようになったという。

リンク元:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%BE%E5%BD%A6


陸氏とはちょっと仲が悪くなっちゃいましたね。

けど、三国志演義後半の地味武将、ヘタレ武将ばかりの中ですと、ぴかりと光る清廉ぶりですね。


中国人らしくないところがgoodです!


怪力無双の持ち主なので、晋との戦いでの無双ぶりも見たかったなあ。

最近、コーエーテクモの三國無双では、三国志後半の時代にも力を入れているので、三國無双10あたりで吾彦様の活躍が見れたらなあ…と思う次第であります^-^



吾彦を知れ!!!

三国志(歴史)ランキング


Viewing all articles
Browse latest Browse all 106

Trending Articles