どうも!
諸葛菜です!
馬隆って知っていますか?私はこの記事を書くまで知りませんでした。三国志演義にも当然出演しておりません。名将と言われていても、演義には登場していない良将軍は何人かいますよね。
羅憲 も、王凌も…。
馬隆 のウィキリンク。
くっ・・・。ウィキにもそれほど書いていないですね。しかたがないのでチャイ語サイトから訳&アレンジしながらぶっ放します(^_^;)
馬隆字は孝興。彼は兗(エン)州東平平陸の人です。
幼い頃より知勇兼備と言われ、礼儀正しい少年でしたが、家柄がそれほどよくなかったため、なかなか魏要人たちの知るところとなりませんでした。
当時魏の皇帝は曹芳。
エン州の刺史の令狐愚は車騎将軍王凌の外甥でありました。王凌と令狐愚は楚王曹彪を次の皇帝にし、首都を許昌にしようと計画していました。
その計画の途上、令狐愚が病死(249年11月)。その計画は、事前に司馬懿の知ることとなり、反乱は起こることなく、王凌は服毒自殺をしてしまいました。
恐怖の老骨司馬懿 は、それでも王凌を辱めます。王凌と令狐愚の墓を暴き、死体を街に三日間放置。いかにも大陸的です…。
エン州の人々はドン引き。この死体を片付けようとする勇気のある人は誰一人ませんでした。
街の中は腐臭が漂うし…。
やっぱ、怖いです、大陸チューゴ君。
しかし、この死体を回収した漢がいたのです。
それは、当時、一小武官に過ぎなかった馬隆です!
彼は令狐愚の賓客という身分でもありました。
彼はなんと、自分の財産を投げ出して令狐愚の墓を作り、松や柏の木を植えました。
喪に服すこと3年。
馬隆はこのあと、州刺史の佐吏として働きました。
蜀漢滅亡後まもなく、司馬昭が死去、司馬炎が皇帝となりました。
呉を討伐するため、勇将、屈強の者どもを集めました。
エン州からは馬隆が推挙され、彼の才能は良将その者であると言われました。彼は、許都の保安官である司馬督という役職につきました。
対呉戦では活躍しなかったのかな?
当時、270年頃、まだ呉が滅びる前ですね。
西北の鮮卑-晋国境沿いでは、激しい戦いが繰り広げられていました。
かつて、姜維 に雑魚キャラ扱いされていた牽弘 、そして、胡烈が鮮卑の頭目禿髮樹機能ら相手に相次いで討ち死に。
晋の朝廷は、現地へ将軍たちを送り込んでいましたが、まったく勝利することができませんでした。
禿髮樹機能に圧倒され続ける晋軍。
ことによると、中華が鮮卑に統一なんてことになりかねません。
司馬炎のターン。
皇帝司馬炎の次なる一手は一体!?
楊欣 投入ww
はい、そこ、笑わないw!
そう、牽弘、諸葛緒
とともにかつて蜀の知勇兼備の麒麟児と言われていた大将軍姜維をヒット・アンド・アウェイでちょっぴり削ったあの楊欣です!
「ザク(牽弘)とは違うのだよ!ザクとはっ!」
的なノリで行ったんでしょうけど、楊欣じゃなあ・・・。
とにかく、楊欣は涼州刺史として着任。
一方、馬隆は、楊欣では能力不足で、彼の地で必ず負けてしまうと上奏しました。、
案の定、楊欣は器の小ささから任地の羌人からも評判が悪く、怨嗟の声も高まっておりました。
278年、楊欣は樹機能の手下である大將若羅拔能に敗北、死亡しました。
翌279年、樹機能は涼州を陥落させました!
どんだけすごいんだっ!?樹機能!?ニュータイプですか!?
姜維伯約、夏侯覇 …古くは馬岱 ですら抜けなかった涼州を陥落させたとは…!
まあ、当時は郭淮 、牛金 、陳泰 、トウ艾がいましたからね。
それにしても、晋の涼州へのガードの低さは一体どうしたこと…(^_^;)?
こうして見ると意外と熱いな…蜀滅亡から呉滅亡までの10数年間。
誰か…作家さん、ライトノベルでもいいからこのへんの時代書いてくれんかね?
とにかく、晋宮は激震です。
司馬炎は殿上で嘆きましたが、満場の文武官は誰一人、司馬炎の憂いを救ってやろうとするものはおりませんでした。
しかし、この時小官であった馬隆は、これは絶好のチャンスと思い、進言しました。
司馬炎が、馬隆にどんな作戦だと聞いてみると、
「3000人の屈強の者どもを集めれば、樹機能を平らげることができるでしょう」
と言いました。
司馬炎はこれを許可しようとしましたが、周囲のモブ文官共が大反対。
「涼州に派遣している兵士は十分。これ以上募兵を行なって、送る必要はない、馬隆のような小物はめちゃくちゃなことを言うものだ」
しかし、司馬炎はモブ共の言うことを聞きいれませんでした。
馬隆はどうやって兵士を集めるのかっ!?
長いので続くっ!(^_^;)
三国志演義後半の文献はこちらから