どうもっ!
諸葛菜ですっ!
王濬の戦での活躍ぶりを書いていきます。
王濬 part.1 三国志演義の締めを飾った孫皓を降伏させた将軍
水軍を訓練
晋の武帝司馬炎が呉討伐を命じ、王濬は直ちに巨大な船を建造し、2000人あまりが搭乗できる大型船でした。大型船の周囲は木柵でかため、船上は馬が往来できるほど広かったそうです。
王濬は蜀の地で軍船を造り、砕かれた木片が川面を覆ったと言われています。呉の建平太守吾彦は大量の木片が流れてくるのを発見し、「晋が呉を撃ちにかかるのは必定。直ちに兵士を集めて防戦に供えるべし」と進言しましたが、孫皓は聴きませんでした。
当時、晋の朝廷内では呉討伐に関する議論が活発に行われておりま、王濬も皇帝に上疏しました。
「臣が呉の状況を確認したところ、孫皓は荒淫暴虐、荊州、揚州一帯の人間は賢者も愚者も問わず、これを恨まぬ者はいません。現状を鑑みるに、すぐに呉を打つべきです。今日、打たねば形勢は予期せぬ方向に向かいかねません。もし、孫皓が急死して、名君が立ってしまったら呉は我々にとって強敵となるでしょう。また、船を建造してからすでに7年が過ぎております。船は日に日に腐ってしまいますし、私もすでに70歳で死期が近づいております。この3つは人の力によるものではありませんので、急いで呉を討たねば、最高の機会を失ってしまうでしょう」
司馬炎は表向き王濬の意見に同意していましたが、賈充ら側近が呉討伐に大反対をしておりました。
張華のみが司馬炎に呉を撃つよう進言し、杜預も荊州から呉を撃つべきだとの上疏があったので、司馬炎はついに討伐を決意しました。
呉の討伐
王濬は蜀の軍勢を率いて出陣。巴郡の男子はすでに兵役に服せる年齢になっていました。兵士の親たちは従軍する息子たちにむかって「王濬様がお前たちに命を与えたのだ。一生懸命忠義を尽くし、無駄死はするな」と激励を飛ばしたそうです。
280年、王濬は水陸の塀を率いて成都から川を下って呉に迫りました。
三国志演義では孫皓の懐刀wである岑昏が川に鉄の杭を張り巡らせて、船ごと破壊しようと画策しましたが、王濬はこれを見抜いて先に大きな筏をたくさん先行させ、このトラップを発動させた後、進軍しました。
残った鉄の杭は松明の火で焼却っ!
後は、こちらにも書いたとおり、強風になびかれた柳のごとく、呉の軍勢は次々と降伏。
孫歆(ソンキン)
陸景
伍延(ゴエン)
陶濬(トウシュン)
張象
孫皓が喪服を着て体を縛り、棺桶を持って投降。
王濬は孫皓の拘束を時、棺桶を燃やし、孫皓を洛陽に送還させました。王濬は呉の書庫を抑え、府を固く封じました。王濬軍は私利私欲に走らず、略奪はなかったようです。
普の武帝司馬炎からも重い恩賞を賜りました。
ここまでは王濬絶好調ですね!
が、中国の功臣が、国が安定し始めた時に言いがかりをつけられたり、粛清されたりと様々な受難が…というのは、もはや常識(;_;)…。王濬はこのまま安楽に暮らせたのでしょうか…。
三国志演義後半の文献はこちらから