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Channel: 三国志演義後半人物事典 諸葛孔明死後の三国志の世界
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諸葛瞻 蜀のリーサルウェポン出撃!綿竹関にて鄧艾を防ぐ!

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どうも!

諸葛菜です!


諸葛孔明の忘れ形見、諸葛瞻様の登場だあ!



諸葛瞻(227年-263年)
諸葛瞻のウィキリンク

父:諸葛亮


演義第117回。


鄧艾・鐘会 軍が南斗の都、成都へ迫るっ!


江油城も陥落。蜀の勝利を予言した巫女さんもばっくれ、劉禅・黄皓も涙目状態。

郤正先生が南の最終兵器、諸葛瞻を招いて鄧艾に当たるようが発言しました。


「事ここに至っては、もはや一刻の猶予も許されませぬ。武侯の子を召して敵を退ける策をおはかりあるがよろしかろうと存知まする」



姜維 の北伐による国家の疲弊を防ぐべく、董蕨らと共に閻宇を姜維の代わりにしようとしたが失敗。
また、黄皓による朝廷の腐敗に嫌気の差した諸葛瞻は、病と言い立てて館に引きこもっていた。



郤正の手の者が諸葛瞻の下へ向かう。


「劉禅様よりのご連絡は?」


「ああ、もらったぜえ」


「諸葛瞻様、鄧艾軍の進軍を阻めるのは雲の諸葛瞻様だけでございます。何卒、なにとぞ、劉禅様の願いを!」


「俺は誰の命令にもしたがわねえ。俺は喰いたいときに食い、飲みたいときに飲むっ!」


「諸葛瞻様・・・っ!」


「おれはあの雲のように自由に生きるのよ・・・」




鄧艾は、劉禅が諸葛瞻を召しだして、行く手を阻もうとする由を密偵から聞いていた。


「何っ?諸葛瞻と!?」


諸葛瞻の名を聞いた鄧艾は驚いた。
まさかあの魂を棄てた男が戦場に来るとは思わなかったのだ。


「もし、その男がわしの知っている諸葛瞻であれば・・・その男は動かん!行くぞ!南斗の都、成都へ!」


(雲の諸葛瞻はすでに世を棄てた男よ・・・)



母親の黄氏は奇才あり。
諸葛瞻に遺した言葉は忠孝の二文字だけでありました。


黄氏についてはこちらの記事でw。


孔明のヨメ


劉禅は3通も詔を出して、諸葛瞻を招きよせ、泣き泣き訴えた。先帝陛下の恩義を思って、朕の命を救ってくれ・・・と。


諸葛瞻も涙ながらに、

「臣ら親子は先帝陛下のご恩顧に預かり、陛下のご処遇をかたじけのうしたもの。肝脳を地にまみらすとも、このご恩の万分の一もお返しできませぬ。なにとぞ成都の軍勢をあげて、臣が決死のいくさにゆくことをお許しいただきとう存じまする」



諸葛瞻の館に孔明旧来の兵士の子らが殺到!


「話は聞いたぜェ!いよいよ戦が始まるんだってなあ!」


「俺たちも混ぜてくれよお!腕がなまっちまってよお!」


「雲の諸葛瞻様に付き合うぜ!」



「バカヤロウどもが・・・おめえらっ!相手を誰だと思っていやがるんだ!鄧艾だぜ!今や飛ぶ鳥を落とす勢いの世紀末覇者の鄧艾だあ!死ぬぜ…!必ず…」


「へへへ・・・喧嘩なら相手がでっかい方がおもしろいぜえ!」


「諸葛瞻様がダメだって言ったって勝手についていくぜ!」



「手前ら…揃いも揃ってバカばっかりだぜ…行き先は地獄だぜっ!」


「でも、天国の方が面白そうですがね・・・」


「よ~し!おめえらっ!ついて来たい奴はみんな来やがれ~~!!」



かくて7万の軍勢を授かり、先鋒を息子諸葛尚に命じて、鄧艾軍の先鋒師纂・鄧忠と戦いました。

初戦は孔明の木像を使って敵をかく乱、大勝を収めました。


二回目の戦いも諸葛尚の奮戦により、師纂・鄧忠を寄せ付けませんでした。


このとき天水の太守王頎(オウキ)、隴西の太守牽弘なども数万の軍勢を率いて到着していました。

数で勝る鄧艾も諸葛瞻の強さに舌を巻き、降服勧告の使者を出します。


諸葛瞻は降服勧告書を見るや血相を変え、書面を粉々に引きちぎり、使者を打ち首としました。



鄧艾軍は力攻めをせず、諸葛瞻らをおびき出し、伏兵で叩く作戦を実行。

蜀兵が散々に打ち崩されて、綿竹関に立て籠もります。


魏軍は鉄桶の如く、綿竹関を取り囲む。


かくてはならじ。


と、諸葛瞻は彭和 に書面を授け、呉の孫休に救援を求めさせました。


ここでの攻防戦はあまりかかれていませんが、鄧艾軍も相当な力攻めをしたことでしょう。



・~・~・~・~・~


綿竹関に立て籠もることになった諸葛瞻軍。


諸葛孔明の息子として、戦の戦術は徹底的に学んできた。


ただ、実戦での経験不足は、鄧艾という強敵と戦っているとおのずと明らかになってくる。


城壁の上に出て、自ら巡回する。


父が残した「連弩」が綿竹関の城壁の端に鎮座ましましていた。


鄧艾軍相手に矢の数は足らないかもしれないが、未だ使用したことのない連弩を使ってみる時ではないのか。


連弩の使用法、作成法は諸葛孔明が弟子の姜維に授けており、諸葛瞻の手元にはなかった。


その時、郤正の使者が一通の書簡を持ってやってきた。その書簡こそ、姜維が諸葛瞻に渡すために郤正に預けた連弩の書であった。


大急ぎでその書を広げてみる。


「すご…い…!普通の弩の10倍以上のエネルギーゲインがある…!」


折りしも、牽弘軍3万が押し寄せてくるとの知らせが入った。城壁にある連弩の包みを外し、牽弘軍へと照準を合わせるよう指示する諸葛瞻。


指揮を息子の諸葛尚に任せ、諸葛瞻自らも連弩操作を行う。


「こいつ…動くぞ!」


土煙を上げて牽弘の大軍が綿竹関へ向けてやってくる。
照準、装填。

ぎりぎりまで引き付けて、発射準備をする諸葛瞻が叫んだ。


「撃つぞ… 撃つぞ… 撃つぞォォォォォ!」



発射。



10本の矢が牽弘軍の重装騎兵をぶち抜く。
騎兵の身体を貫いた矢が馬をも貫く、一本の矢で2,3人の兵を殺傷させる威力に諸葛瞻はしびれた。


「すごい…親父が熱中するわけだ…」


牽弘軍に多数の死傷者を出したが、連弩の矢は尽きた。



・~・~・~・~・~



援軍を待っていてもいっこうにこない。


「いつまでも立て籠もっているのは良策とはいえぬ」


諸葛瞻は息子と張遵・黄崇・李球らを城の守備に留め、自身は鎧をつけ馬にまたがるや城門を押し開いて出陣。


鄧艾軍を力押しに押しましたが、伏勢に遭い、矢を浴びせられ蜀軍壊乱。


諸葛瞻も身体に矢を受け落馬しました。


「もはや力尽きた。このうえは一死を持って国に報いるばかりだ」


と呼ばわるなり、剣を引き抜きみずから首かき切って死んでしまいました。





諸葛瞻の最後、あまりにもあっけなさ過ぎました。


捨て鉢になって大軍に突進、自刃は創作なのかなと思いしました。特に兵糧にも困っていなさそうだったので、綿竹関にずっと立て籠もっていれば、呉の援軍はともかく、蜀の増援部隊もあったかもしれないのに。


息子以上に短気な気がしました。


ウィキにあるように、江油城に到着する前に鄧艾軍と戦っていれば追い返すことが出来たかもしれないのに、惜しかったです。


黄崇(黄権の息子) の言うとおりにしていれば…。


惜しい…。


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