どうも!
諸葛菜です!
馮タンって三国志演義後半にもちょこちょこ出てきます。
曹奐をいじめる時、司馬昭や司馬炎をヨイショする時にしか登場しない、宮廷のモブキャラかと思ったら、三国末期や晋初期の頃はなかなか悪どいおやじだったようですね。
馮タン字は少冑、安平(河北省冀県)の人。祖父馮浮は司隷校尉として洛陽一帯の軍事監督者であり、父馮員は司州汲郡(河南省汲県)の太守でした。
馮タンは幼少時から歴史を好み、弁才のある子どもでした。
彼は魏郡の太守となり、歩兵校尉、越騎校尉を兼任した。武帝司馬炎の寵愛を受け、左衛将軍に任じられました。
晋書によると馮タンは媚びへつらう能力にたけており、司馬炎を喜ばせるのが得意で、彼に対する寵愛は日々増していきました。司馬炎の寵愛を受けると同時に、保身も忘れていません。その他の取り巻き連中である賈充、荀勗らとも交流を深め、自分の地位を安定させました。
馮タンの内政での貢献が記されている文献は少なく、馮タン伝では2つしか話が載っていません。
ひとつは賈充が中央政府から、辺境の地へ出陣させられる(西方の異民族が大猖獗中で、楊欣
、牽弘
ら三国末期の地味武将が相次いで討ち死に。司馬炎は賈充を派遣しようと考えていた。)のを防いだこと。
賈充の娘賈南風を太子のお妃にしようと運動をしたことです。
※異民族は馬隆ジェネラルが見事に退治しました。
娘はとんでもなく残虐で宮女を殺しまくったので、司馬炎は大激怒して彼女を殺そうとしましたが馮タンや荀勗が彼女を保護したため、死刑は免れました。
司馬炎が重病を患い、やや回復しかけた頃…馮タンと荀勗は朝廷内が斉王司馬攸に後を継ぐのではという空気を嗅ぎとっていました。馮タン、荀勗らは周囲からは奸臣と思われていて、司馬攸も彼らを疎ましく思っていました。荀勗は太子である司馬衷は暗弱なため、司馬攸が後を継いだら自分の立場が危うくなるのを察していました。
荀勗は馮タンに司馬炎にこのように言わせました。
「もし、陛下に不測の事態が起こった場合、太子は廃されることでしょう。斉王は民心を得ておりますし、朝廷の人々からも尊敬されています。皇帝の座は斉王のものになるかもしれません。斉王を遠くにお遣りになり、社稷を安定させてくださいませ」
司馬炎は馮タンの言うことを丸呑み。
司馬炎と司馬攸との兄弟関係は悪くはありませんでしたが、馮タン・荀勗からの「離間の計」にかかり、後継者問題を重く見始めた司馬炎は司馬攸を地方へと左遷させました。
司馬攸への処遇に対し、朝野の人々は悲しみました。司馬炎も相当心苦しかったようです。
しかし、馮タンは司馬炎が泣いているのを見た時、
「斉王の名は実に過ぎておりまする。もし今彼が死んだら晋にとっては正に吉でございまするぞ。陛下はなぜそこまで悲しむのでござりまするか?」
司馬炎はこの言葉を聞いて泣くのをやめたそうです。
279年、司馬炎が呉を討伐する時、馮タンは豫州汝南の太守を務めており、龍驤将軍王濬が建業に攻め下った際に随行して功績をあげました。その功により御史中丞、侍中を歴任しました。
馮タンは賈充と同様、呉を打つことには反対していました。
荀勗、賈充らと共同して司馬炎に呉討伐をやめるよう引っ切り無しに上奏していました。
さらに主戦派の張華を腰斬の刑に処してしまえと上奏しまくっていました^^;
孫皓が投降した時ですら、呉討伐は失敗する、張華を斬って天下に示しをつけろと要求していました。
が、結果は晋の大勝利。呉平定後は張華を仇敵のごとく恨み、恐れたようです。
張華が司馬攸の擁立を企てているとの噂を聞きつけ、これをチャンスとみた馮タンは、「張華が司馬炎に反逆を企てている」とでっち上げ、幽州に左遷させました。
張華は、幽州で軍事総督を務め、異民族の慰撫にも成功し、名声を高めたそうですがw
さあ、馮タンの次の一手が気になります。
ある時、司馬炎に侍っていた馮タンは、鐘会謀叛の話を蒸し返しました。
「鐘会の反乱は…実は太祖(司馬昭)が引き起こしたものなのです」
司馬炎は顔色をさっと変え、
「貴様、何を言うかっ!」
馮タンはすぐに帽子をとって謝罪して、
「鐘会の才には限りがありました。太祖はわざと彼を褒めちぎり、大権をお与えになりました。鍾会の功は世を覆うほどになりましたが、謀叛を企てました。もし、太祖が恩と威を与えていれば、謀叛は起こさなかったでしょう」
司馬炎は深くうなずき同意しました。
馮タンは続けて、
「陛下は私めの意見にご賛同されましたが、どうか氷がゆっくりと溶けていくの座視なさらぬよう…鍾会のような人間に国家を傾けさせてはなりませぬ」
司馬炎は、
「今の世の中、鍾会のような人物が出ると思うのかね?」
馮タンは衝立の後ろにさがり、左右をみながら、
「陛下のために策謀をめぐらし、大功を立て、軍の大権を握っている者です」
これはもちろん張華のこと。幽州で大功を収めていた張華を中央に呼び戻させまいと司馬炎に決意させたのですな。
小賢しい、つーけーの穴が小さい野郎です。
他人を陥れる才、保身術、社内政治力のある人間ほど、国の発展に殆ど貢献しないという好例ですね!
鍾会の話を蒸し返した時も、「あんたの先代はこんなポカをしたけれど、まさかあんたまで同じ轍を踏むわけではないでしょうな」と、司馬炎のハートを見事にくすぐりましたね。
この野郎は286年に死亡。馮タン危篤の報を聞いた司馬炎は散騎常侍に封じ、銭20万を与えたそうな。しばらくして馮タンは病没。
馮タンは混乱の種を散々撒き散らしておいて逝っちゃいました。
彼の撒いた種は、司馬炎が亡くなった後に見事に実を結ぶのですが、晋はわたくし諸葛菜にとって未だに「あなたの知らない世界」^^;。
張華よ・・・安らかに!