どうもっ!
諸葛菜です!
三国志演義では扱われなかった王凌さんです。
三国志演義後半の武将と言いつつ、三国志演義に未出演の武将も取り扱っておりますなあ、このブログ。
王凌の略歴
おじさんはなんと、呂布とともに董卓を退治した王允!
董卓軍の残党李カク・郭シが長安を占領した際、王允の一族は皆殺しにされてしまいましたが、王凌は兄とともに長安から脱出し、郷里に逃げ帰りました。
後に中山太守となり、治績をあげ、曹操の目にも止まりました。
青州刺史を歴任し、曹休が石亭の戦いで大敗した時は奮闘して彼を救出。
豫州、揚州など様々な場所で実績を上げ、軍民たちからも信頼されていました。
王凌は司馬朗(司馬懿の兄)、賈逵(賈充の親父)とも親しく、彼の業績を引き継ぎました。
更に、戦いでも実績を上げ、呉の将軍全ソウ率いる数万の軍勢を退け、車騎将軍にも昇進。
ばっちりです。
文武両道です。
彼の外甥に当たる令狐愚も淮南に駐屯しており、王家の勢力は強固なものになっていました。
三国志演義後半の王凌
時代は司馬懿の台頭時代。
曹爽
を亡き者にし、曹芳
が若いため政はすべて司馬氏の手にあった。
危機感を覚えた王凌は曹操の息子楚王曹彪を許昌に迎え天子にしようと考えた。
三国志の様々な予兆を示すのに、歌があります。
なんたらフラグというやつですな。
王凌の任地では、「白馬が白い轡をはめて西南に向かう。乗っているのは朱虎騎」
白馬は曹彪の過去の任地。
朱虎は曹彪の字。
令狐愚は吉兆だと喜び、廃立計画を実行に移し始めた。
王凌は洛陽にいる息子王広に計画を打ち明けたが、息子は「災いが降りかかる」と反対。王凌は聞き入れない。
さらに、この時令狐愚が急死してしまった。
251年。
呉がト水をせき止めたため、魏に攻め入る態勢を見せたため、王凌は呉討伐の軍を起こすべしと上奏した。
もちろん、これが勅許されれば、司馬懿を討つ計画だったのだ。
しかし、残念ながら勅許されず。
252年。
王凌は占い師から「呉楚の地に王者が出る」と聞き、挙兵を決意した。
曹彪が楚王だから、てっきり彼が王者になれるとおもったのでしょうね。
計画が密告される
黄華という人物は酒泉郡に拠って魏に最後まで抵抗した漢。
その男を語らって廃立計画を立てようとしますが、密告され、司馬懿が動き出す。
王凌を安心させるため、司馬懿は恩赦の書簡と息子王広の説諭の書簡を一緒に送り届けた。
王凌は事が発覚したので、自縛して司馬懿を待った。
司馬懿に縄目を解かれた王凌は一安心。
「司馬朗とも仲がよかったから、弟の司馬懿なら、もしかして許してくれるかも…」
と、思ったかもしれません。
しかし、王凌を載せた船に、司馬懿は近寄ろうとしない。
これを見た王凌は敬遠されたと知り、焦りだす。
嵌められたと気づいた時には、すでに遅し。
王凌「君は私を欺いたな?」
司馬懿 「私は君を欺くが、天子を欺かない」
と応酬。
王凌は自分の命が助かるかを確かめるため、棺桶に打つ釘を司馬懿に求めた。
駄目だよ・・・そんな意味深な言葉で核心に迫らないでっ!
B'zじゃないけど、それじゃあ「BAD COMMUNICATION」だよっ!(ノД`)
司馬懿は・・・
普通に釘をくれました。
王凌の棺桶は準備してあるから・・・ってことです。
王凌はこれで覚悟。
毒をあおって自決しました。
王凌の家族は皆殺し、王凌及び令狐愚の死体も暴かれ、市場で三日間さらされた。
楚王曹彪も自殺。
淮南の乱はこれにて集結。
この後、カン丘倹 、諸葛誕 と淮南の地で挙兵しますが、この3つの挙兵に直接的な関連性はありません。
まあ、共通した目的としては司馬氏の専横に業を煮やした忠臣たちが、皇室のために立ち上がった戦いでした。
武将を探すときはここからどうぞ!
↓ ↓ ↓
前編も更新