どうもっ!
諸葛菜ですっ!
いや~・・・このブログを開設してから1年余りが過ぎ、出落ち武将を書き尽くしてしまった感があります。
まだ残っているけど、メジャーも書かなくちゃあ・・・。
司馬昭っ!
あまりにも有名なので、解説をする必要もないでしょう。
三国志演義後半での活躍を見てみましょうか。
演義第108回。
父司馬懿
が老衰で死去。
その後釜を突いだのが司馬昭の兄司馬師
。
呉では孫権が亡くなり、孫亮が皇帝となった。
司馬師は呉討伐軍を催そうとし、早速軍議を起こした。
その時傅カ
は、
「呉は長江の難所を前に控えており、先帝もしばしば親征あそばされながらついにお望みをとげられなかったもの。今はむしろ辺境を固める方が、上の策かと心得ます」
が、司馬昭は
「孫権が死に、孫亮 がまだ幼い今こそ、またとないおりではないか」
と、傅カ の諌めも聞かずに、毌丘倹(カンキュウケン) 、胡遵 ら多数の大将と数十万の兵をつれ、呉を討伐に向かった。
しかし、桓嘉
、韓綜
が丁奉
に蹴散らされ、先鋒軍は壊乱。
司馬昭はすぐに本国に引き揚げた・・・。
ちっ・・・あっさり引き下がっちまいやがって…。
呉の諸葛恪は魏軍を打ち破った後も北上し、張特と激突。
呉に対してばかり兵力を割いているのは不安と感じたのか、司馬師は司馬昭を蜀・魏国境へ飛ばし、蜀の襲撃に備えた。
演義第109回。
蜀の姜維が再び北伐を開始。
司馬昭は司馬師に大都督を命じられ、猛将徐質を連れて迎撃に出た。
蜀軍の大動脈である糧道を断ち切るため、司馬昭は徐質 に命じた。
「先に蜀を破ることができたのは。その糧道を絶ったからじゃ。今、蜀の兵士が鉄籠山のやまかげで糧秣を運んでおるとのこと。今宵、五千騎を率いて糧道を絶ってまいれ。蜀の軍勢はおのずと退くであろう」
が、この作戦はあえなく失敗。
徐質は姜維に討たれて、司馬昭は六千騎を率いて鉄籠山へ逃げ込んだ。
山は姜維にぐるりと囲まれ、山頂にある泉はほとんど枯れており、兵士たちの喉を潤すこともできない。
まさに万事休す。
スーパーデビル司馬懿の息子がこんなところで死んでしまうのか・・・!?(棒読み)
主簿の王トウ たら言う奴が、天に祈ってみたらというので、祈祷開始!
「昭、詔奉じ蜀の軍勢を追いのけんとしてここに至る。もし昭に命数なくば、泉を枯らせたまえ。昭、みずから首を刎ね、配下の者どもを降参せしめん。またもし、天寿のなお終わらざりしなら、泉を賜いて、者どもの命を救い給え~~~!」
泉がコンコンと湧き出たあ~~~!
演義後半の冒頭部分でやられたらたまりませんもんね。
主役補正で危機を脱出。
陳泰、郭淮 が救援に来たため、無事、洛陽に戻ることができました。
洛陽に帰ってからも一仕事が・・・つづくっ!